メイヤスー「思弁的実在論」の衝撃

ここでは思弁的転回を理解する第一歩として、若きスターであるメイヤスーに焦点を当てることにしましょう。

20世紀の後半(70年代以降)、フーコーやデリダやドゥルーズなど、フランスの現代思想家たちが、アメリカで多くの支持を集めました。しかし、21世紀になると、そうした巨匠たちも亡くなり、思想的カリスマが不在となってしまいました。そうした状況で、新たな思想的ヒーローとして登場したのが、カンタン・メイヤスーです。彼は、現在パリ第1大学の准教授となっていますが、1967年生まれとまだ若く、注目されたころは30代でした。

メイヤスーが2006年に出版し、その後「思弁的実在論」の運動を形成するきっかけになったのが、『有限性の後で』です。アラン・バディウの推薦もあって、この本によってメイヤスーは一躍、現代思想界の中心に立つようになりました。

では、この本で彼は、何を語ったのでしょうか。彼の基本的な視座となっているのは、カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になったという洞察です。その意味を彼は、次のように説明しています。

私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう。そうすると、素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことができる。

メイヤスーによれば、こうした「相関主義」は、20世紀の現象学であれ、分析哲学であれ、免れてはいません。そして、言うまでもなく、言語論的転回やポストモダン思想も例外ではありません。メイヤスーはこうした相関主義を乗り越え、思考から独立した「存在」へと向かうのです。その意味で実在論を目ざすのですが、かつての「素朴実在論」とは区別されます。

むしろ、彼が「実在」と考えているのは、数学や科学によって理解できるものです。その立場を、メイヤスーは「思弁的唯物論」と呼びながら思考を深めていくのです。

人間の思考から独立した「存在」を考えるために、メイヤスーは人類の出現以前の「祖先以前性」を問題にしたり、人類の消滅以後の「可能な出来事」を想定しています。これらは、「人間から分離可能な世界」として、科学的に考察することが可能でしょう。それなのに、「相関主義」はそのような理解に目を閉ざしてきたのです。

こうして、メイヤスーによれば、カントの超越論的観念論(認識論的転回)も、20世紀の言語論的転回も、ポストモダン思想も、相関主義に他ならず批判されなくてはならないのです。

しかし、メイヤスーの哲学は、今のところ基本的な視点を提示したにとどまり、そこから具体的にどんな思想を展開していくのか、明らかではありません。それについては、今後の議論を待たなければなりません。

次回(9/16公開)は「実在論的転回」のなかでもメイヤスーとはまた違った思想を展開しているマルクス・ガブリエルについて紹介していきたいと思います。