ニーチェの話に聞き入っている間に、私たちは目的地であったパン屋さんを通り過ぎていた。正確には、少し前に到着できたのだが、もう少し、この話を聞きたいと思った私は、ニーチェに黙って、本能寺が再建されている寺町通を通り、遠回りしてパン屋に向かうことにした。お腹を空かせているニーチェには悪いと思ったが、ニーチェの話を聞いているうちに、私なりの貪欲さが湧いてきたのかもしれない。

 縁切り神社で心機一転、新しい自分と出会いたいと願った時、私はその行為がどこか恥ずかしかった。自分の人生がより好転して欲しいと素直に思う自分と、「願かけをすることで人生が好転するかも」という期待している自分を蔑む自分が、心の中に存在していたのだ。自分の人生が良くなるようにと希望を持つことは、誰に対しても悪いことでもないのに、自分で自分を批評するような癖が私にはあったのだ。

 なんのために、自分で自分を批評しているのかというと、きっと他人から批評されて傷つく前に、自分で自分を批評することで、ダメージを少しでも和らげようとする、予防線であるのだ。

 貪欲になる前に、傷つかないようにと、自分で自分を批評して感情を押し殺す癖。つまり傷つきたくないあまりに、問題を直視せず、避けようとする癖。自信のなさが生んだ、自意識過剰で否定的な癖なのだ。

 もしかすると、私が家族を避けて実家に帰らないのも、家族に対して寂しさを認められないのも、自分の気持ちに正直になって素直な欲を認めるのが怖いのかもしれない。

「そうだね、ニーチェの話していることちょっとわかるかも。何かにつまずいた時に、“自分ってだめだなあ、でもこういう性格だからしかたないなあ”って自分を納得させたり、落ちこむようなことがあった時に、“私には向いてないのかも、あまり考えないでおこう”って思うほど臆病になっていくというか。
 傷つくことを怖いと思うあまりに、自分の素直な欲求を閉じこめて、どんどん臆病になってしまったり……わかるよ」

「そうだ。自分で自分をかわいそうがることは、“私なんてどうせ”という発想に自分をどんどん陥れることになってくる。“私なんてどうせ”という気持ちは厄介だ。言い換えると、
 私の元には幸せはやって来ない。私なんてどうせ、幸せになる資格がない人間だと、不幸に依存する入り口にもなりうるからな。
 結局人間は、自分からは逃れられない。自分で自分を超えて行くほかないのだ。
『打ち勝つための道と方法はあまたある。それはお前が見つけなければならないのだ』これに尽きる」

 自分で見つけなければならない、か。

 自分からは逃れられないし、自分しか自分の人生を歩いて行くことは出来ないけど、あまりに当たり前すぎて、特別意識することもなく生きているというのは、なんとも皮肉な話かもしれない。

 どんな苛酷な状況に置かれようが、人に言えない寂しさを抱えようが、それがいまの自分の道なのだ。それは、私が自分で歩き、開拓して行くしかないのだ。

「アリサよ……」

「ん?何?」

「まだ、到着しないのか……気力で保っていたが、空腹が限界だ」

「ああ!すっかり忘れていた。ごめんごめん。この三条名店街のアーケードを抜けたらすぐだから!」

「そうか、このアーケードを抜ければいいのだな」

 ニーチェはよっぽどお腹が減っているのか、遠回りしたことにさえ気づいていないようだった。

 私たちは、まだシャッターが閉まっている静かな商店街を抜け、目的のパン屋さんへと到着した。京都は意外なことに、パンの消費量が全国一位らしく、和食のイメージがあるものの、みんなパンが好きなようだ。パン屋さんの数も多く、このパン屋さんも京都では有名なチェーン店である。

 店内に入ると、焼きたてのパンとバターの香ばしい香りが、鼻先から食欲を刺激し、私は思わずつばを飲みこむ。

「おお……」

「うん、美味しそうだね」

「この店の、おすすめはどれだ?」

 私は、迷うことなく、入り口の近くに置かれたサンドウィッチのパックを手に取り、ニーチェへ差し出した。

「おすすめはこれだよ。ふんわりオムレツサンドと元祖ビーフカツサンドがセットになったこのパック!ふわっふわの厚焼きたまごのオムレツサンドと、カリカリに揚がったビーフカツサンドがどっちも楽しめる、お得なセット!」

 ニーチェは前髪を指に絡めだす。どのパンにするかを悩んでいるようだ。

「どれも美味そうで、迷うなあ。よし、アリサ。このパックと、そしてあそこにあるあんパンも気になるな……」

「さすが、お目が高いね。あのあんパンもかなりおすすめだよ。じゃあさ、いくつか買って一緒に分けようよ」

「おお、それは名案だな。では、そうしよう」

 私たちは、香ばしいパンの香りに包まれた店内で、これも美味しそう、あれも美味しそうと朝食を選んだ。誰かと食べる朝食は、久しぶりだ。

 お店に掛けられた小さな時計は、朝八時半をさしていた。

 今日という日はまだはじまったばかりだ。お店の外に見える町も、少しずつ今日という日を始めようと動き出していた。

道を選ぶのに、言い訳はいらない【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第18回】

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある