「へえ、素敵な喫茶店ですね」

「気にいってもらえたならよかった。ここはゼリーも素敵なんですよ」

「ゼリーが美味しいんですか?」

「美味しい、というより格段に美しいのです。ああ、申し遅れました、僕キルケゴールと申します」

 男は大きなシルクハットを右手で掴み、胸のあたりまで下げると軽く一礼し、微笑んだ。ムスクのいい香りがふわっと立ちこめる。

 なんということだろう。私は思わず息を飲んだ。

 シルクハットに隠れていて気がつかなかったが、細く通った鼻筋に無駄な贅肉のないスッとこけた頬、憂いある切れ長の瞳。キルケゴール、めちゃくちゃイケメンじゃないか!

「……惚れてしまったか」

 ニーチェが私を指さしながらクスリと笑った。

「変なこと吹きこむのやめて……」

 慌てて否定しながらも、心の中では、適当な格好で来てしまったことを後悔していたのは事実だ。

「フフッ。そうですよ、からかっちゃだめですよ」

 キルケゴールは恥ずかしそうに微笑んだ。やはり何度見ても、格段に美しい顔立ちをしている。

「あの、申し遅れました。私はアリサです」

「アリサさんか。God dag、アリサ」

「アリサ、キルケゴール君はデンマークのお坊ちゃんなのだ。誘惑者と呼ぶにふさわしい端正な顔立ちだろう」

「うん、たしかに綺麗ですね」

「いや、そんなことないです。ニーチェさん、大げさに言わないでください。それより何か、頼みませんか」

 彼はそう言うと、店員さんを呼びゼリーを三つ頼んだ。いつもこのゼリーを食べに来るらしい。

 しばらくしてテーブルに運ばれてきたゼリーはレモンイエロー、ピンク、エメラルド、水色とまるでカラフルな宝石がちりばめられたような見た目をしていて、ステンドグラスのような美しさがあった。

「わぁ、このゼリー本当に綺麗ですね」

「フフッ。気に入ってもらえて何よりです」

「レモンスカッシュみたいな味だな」

 ニーチェはどうやらこのゼリーをかなり気に入ったようで黙々と食べていた。

「キルケゴール君、綺麗なものが好きなのだ」

「そう……ですね、綺麗なものと、あと憂愁が好きですね」

 どうやらニーチェとキルケゴールは全然違うタイプのようだ。

 いままで“哲学者”と聞くと、真面目で頭が固く、なんとなく暗い人。というイメージを持っていたがいろんなタイプがいるようだ。

 皮肉屋で明るいニーチェに対して、キルケゴールはどこか寂しげな哀愁漂う性格のようだ。

「アリサさんは、好きですか?憂愁」

「憂愁?えっと憂愁って、哀しみに浸るみたいなことですか」

「そうですね、僕にとって憂愁は恋人みたいなものなんです。どこにいたとしても、憂愁に浸ると、目の前の世界が美しいもののように思えてきます」

「あんまり考えたことなかったな、明るいことやポジティブなことを考える方がいいとなんとなく思っているから」

「なんとなく、ですか」

 キルケゴールはそう言うと、手元にあるゼリーに目を向け、しばらく黙ってみせた。そして、しばらくして、静かに語りだした。

(つづく)

ああ、申し遅れました、僕キルケゴールと申します【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第20回】

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある