涙ぐましい販売現場の努力

 昭和20年代は、洋装していてもブラジャーをせず、ブラウスの下で乳房が躍っている女性を多く見かけたという。昭和30年(1955年)9月に創刊した『ワコールニュース』創刊号の中で、幸一はこう語って嘆いている。

「スキャンダラスなパンティ(?)」を生み出した<br />ライバルの女性デザイナー1955年9月に出た「ワコールニュース」創刊号

 〈文明の進化は知らず知らず我々の生活を不規則化し、不健康化しています。我々はつとめて胸を張り、内臓を正常な位置に置く事もこの下着の着用によって出来るわけです。然し私共が如何に声を大にして下着の重要性をとなえても現在の普及の程度は未だ未だほんの一部の人々のご使用を願つている程度で、之を本当に全国的に全婦人を対象に啓蒙して行く事は正しい知識を土台として長い年月と間断なきPRが大切と存じます。その意味からワコールニュースがその一翼を担う事が出来ればと、この様な希いのもとに此の度発刊を決意致しました〉

 幸一たちの啓蒙活動の甲斐あって、洋装にブラジャーが一般的になっていき、ズロースに代わって短く小さめのショーツをはくようになっていく。そしてファンデーションの売り上げが飛躍的に増えていく中、多忙を極めたのが販売部隊であった。

 幸一の八幡商業の同級生でバイタリティの塊のような男だった川口郁雄をして、販売の面で一目置かさせていたのが奥忠三だが、大阪出張所を任されていた奥は、関西地区の販売の要として大車輪の大活躍を見せていた。

 大阪の夏は暑い。大阪出張所は大阪の洋品雑貨の問屋街として有名な南久宝寺町1丁目の久宝寺町卸連合会館内にあったが、三方が建物に囲まれてトタン屋根という構造だったから蒸し風呂状態である。

 それでもいつ来客があるかわからない。そこで奥は、下半身は暑いのでステテコ姿になっていたが、上半身だけはワイシャツに蝶ネクタイで頑張っていた。

 表に売り場があり、来客があると事務所に連絡が入る。

 するとさっとズボンをはくというわけだ。だがそんな暑い事務所に通された客は、閉口してすぐ退散したにちがいない。