西郷の「赤報隊」の挑発で起きた
鳥羽伏見の戦い

 何とか幕府を戦に引きずり出さなければならない。
 ここで西郷の使った手が、「赤報隊(せきほうたい)」というテロ集団を組織し、江戸市中及び関東でテロ活動を繰り広げ、幕府を挑発するという、なりふり構わぬ卑劣な手段であった。

 徳川慶喜が、この挑発に乗ってしまったことで、西郷たちは待望の幕府との戦を創り上げることに成功した。

 これが「鳥羽伏見の戦い」である。

 しかし、望んでいた武力衝突であったとはいえ、「鳥羽伏見の戦い」とは討幕勢力にとって決して勝利が確信できた戦(いくさ)ではなかった。

 挑発を担当した西郷にとっても、イチかバチかの思いで臨んだ戦であったのだ。

 総合的な武力では、幕府側に分があったのである。
 錦旗(きんき)を偽造し、勅許までをも偽造して臨んだこの戦に於いて、西郷・大久保は、開戦と同時に天皇の逃げ道を準備していた。
 この逃げ道の事前探査に走らされたのが、後に最後の元老といわれた西園寺公望(きんもち)である。

 西園寺は、この時数えで二十歳。薩長の兵二百と大砲二門を与えられ、洛北山国荘方面へ走ったのである。

 京を出たのが、慶応四(1868)年の正月五日早朝、西園寺たちは昼の弁当も用意していなかったというから、正月三日に開戦した「鳥羽伏見の戦い」という局面で天皇を脱出させるということが、如何に緊急に、非常案件として検討されていたかが分かる。

負け戦も覚悟した熾烈な戦いだった

 つまり、西郷たちは、負け戦の覚悟を求められていたということだ。
 まるで勝つべくして勝ったかのように語られてきた薩長政権によるこの戦の様相は、どこまでも後付けの歴史物語に過ぎない。
 西郷はこの時、明治天皇を女装させ、女輿(おんなごし)に乗せて山陰道を長州へ逃れさせようとしていたようだ。

「鳥羽伏見の戦い」がほとんどすべてといっていい討幕戦争とは、それほどきわどい戦であったということだ。
 続きは次回に譲ろう。