老齢に近づくほど
死は怖くなくなる

 私自身は、若いときのほうが死についてよく考えていました。生きるべきか死ぬべきかというような哲学的な命題に、真正面から取り組んでいました。若い頃は、神経症的な傾向が強かったこともあり、死が怖くていろいろ考えたのだろうと思います。ところが不思議なことに、歳をとるにつれて、死についてだんだん関心が向かなくなってきたのです。

  老齢に近づくにつれて、肉体的には確実に衰えていくわけです。去年できたことが、今年はできなくなる。大学で教えていると、それが如実にわかります。駅から大学に向かう途中、自分では普通に歩いているつもりなのに、学生たちにどんどん追い抜かれる。パソコンの使い方も、彼らにできることができなくなる。自分と若者たちとの差を、もう歴然と感じるわけです。よく「若い者には負けない」というけれど、負けるに決まっている。でもそれがあまり不満ではない。いつの頃からか、肉体的に衰えていくことを受け入れるようになったのです。なぜなら、老いることはとても自然なことだから。

 若いときは、生と死は対立するもの、異質なものだと考えていました。でも歳を重ねるごとに、アメリカインディアンのように、生と死は繋がっていると、次第に感じられるようになった。だから近づけば近づくほど、死は怖いものではなくなってきたのだと思います。今ではもう、死に対する違和感はほとんどなくなっています。

加藤諦三(かとう・たいぞう) 早稲田大学名誉教授・作家。1938年東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同学院社会学研究科修士課程を修了。早稲田大学理工学部教授を経て、現在は早稲田大学名誉教授、ハーヴァード大学ライシャウアー研究所准研究員、日本精神衛生学会顧問。著書に、『アメリカインディアンの教え』『話が通じない人の心理』『「日本型うつ病社会」の構造』など著書多数。

毎日消えてゆくもの
を大切にする

 今の日本では、歳をとることが、自分の評価を下げることに繋がっているような気がします。資本主義の世の中、競争社会の中では、人間は働く能力だけで評価される傾向にあります。つまり高齢になるにしたがって、働く能力が衰えると、自己評価がどんどん下がってしまうのです。そんな老いは到底、受け入れられないでしょう。そこにアメリカインディアンのような穏やかな死があるとは思えません。

 現代の高齢者問題というのは、現実的にはさまざまな問題があるけれども、最大の問題は、じつは高齢者が自らの老化を受け入れられず、高齢者に対する敬意もないという、心理的な部分にあるのだと思います。本来はテレンバッハ(精神病理学者)が言うように、「老いは成熟である」はずです。私自身、今になって初めて、若いときにはわからなかった喜びや豊かさを感じることが多いのです。肉体は衰えても、魂は歳をとらず、逆に成長していると感じます。

 私たちが、アメリカインディアンに学べることは何でしょうか? 彼らの言葉に、次のようなものがあります。「あなたの喜びは何? あなたの目的は何? それを見つけなさい。それを確認しなさい。そして、それを捨てなさい」。

 アメリカインディアンの哲学は、仏教の色即是空の考え方にも似ています。形あるものに執着せず、毎日消えてゆくものを大切にするのです。もちろん、ずっと資本主義社会の枠組みの中で生きてきて、いきなり彼らのように考えろと言っても無理があるでしょう。

 ただ、これだけは言えます。生と死は対立するものではなく、死がなければ生を意識することもない。つまり、死を意識することは、いかに生きるかを考えることでもある。

 これからでも遅くない、別の世界への改札口を通れるように、これまでの“心の借金”を清算し、自分を偽らず、敵意を持たず、アメリカインディアンのように、自然に感謝しながら生きてゆく。そうすれば、生も死も、限りなく豊かになる。それが自らの人生を締めくくる、最高のメモリアルになるはずです。