この壮絶な話には、続きがある。

「あとになって、その企業の方から『3月の末には、支援できる準備ができており、自治体に連絡をいれたけれど、まったく反応がなかった』と聞かされたんですよ。もう、腰が抜けるほどびっくりしました」

「3.11」以降、一斉にスタートした震災復興。南三陸では早くも5月の時点で、他の自治体との格差が開いていたわけだが、こうした『行政手腕の差』がはっきりと見えてくるのは、むしろ、これからなのだろう。

悲劇を風化させない
被災地としての責任

 ホテルが避難所としての役目を終えた後、阿部さんは来訪者を対象に「震災を風化させないための語り部バス」を始めた。語り部は、参加者と共に被災地をバスで巡り、「あの日起きたこと」を自分の言葉で伝える、震災の風化を防ぎ、教訓を後世に広めるための活動だ。

「南三陸は震災でおよそ800名もの尊い命を失いました。それで調べてみたら、海の近くに住んでいる人よりも、海から離れた内陸部に住んでいる方々の死者が多かったのです。海沿いの人たちは、昭和35年に起きたチリ地震津波を経験した親たちの教えを守り、揺れてすぐに取るものも取らず逃げたのでしょう。一方内陸の人は油断していたのかもしれません。単に「死者800名」という数字だけではわからない教訓です。さらに、高齢者や子どもを気遣い、家に戻ったために亡くなった方が多いのも特徴です。『津波てんでんこ』と言いますが、高齢者はこの言葉の通り、自分の命は自分で守って助かった。それなのに、自分を助けようと息子や娘が亡くなってしまった。『日頃から、もっと話し合っておけばよかった』と後悔している方がたくさんいます。風化させないで、伝え続けることが減災に繋がる。被災地の私たちが果たさなければならない責任です」

 東日本大震災以降も、日本で、世界で、大きな災害が次々と起きている。南三陸の人たちは「その時、どう行動したらいいのか」を検証し、語り継ぐことで、震災の記憶を世界の未来に活かそうとしているのだ。さらに語り部活動は、阿部さんが考えた以上に、語り部自身の役にも立っているという。

「津波で職を失った人たちの生計を支えることにもなればと思っていたのですが、それだけではありませんでした。半年、1年と語り部を続け、外の人と積極的に交流した人は、確実に前を向けるようになっていったのです。笑顔も戻りましたし。一方で、それができない人は、下を向いたまま。明暗は歴然です」