「そうですねえ。さっきも言ったように、一度は真剣に国の行く末を考え、行動した人も少なからずいたと思いますが、その世代の人々が牽引する今の日本が拝金主義だというのは、なんかこう……一人の日本人としては、寂しい気がしているんですよ」

 自分の口から出ている言葉では、自分の考えを十分に伝えることが出来ていないと、もどかしさを感じて隆嗣は俯いてしまった。

「退廃に溺れやすい資本主義社会の日本と中国を、一緒に考えてはいけないぞ」

「いや、中国もこのままでは資本主義社会に姿を変えていくだろう、彼が言ったことは、中国の将来の姿でもあると考えるべきだ」

 学生たちが意見を交わし始める。

「彼が言いたいことは、別のところにあるんじゃないかな」

 建平が声を上げると、ざわついたそれぞれの意見が止んだ。祝平が引き継ぐ。

「うん。伊藤君が言いたいのは、我々のこの真摯な運動を一時的な熱情で終わらせることなく、10年経とうが20年経とうが、変わらず問題意識を持ち続けることが大切だということじゃないかな。たとえ社会の状況が変わって行こうとも」

「そう、激しく燃えたとしても瞬時に消えてしまうような炎であるより、小さい火であっても、それを灯し続けることの方が大切なんだ」

 建平が拳を振って弁じた。力強く語るリーダー『两平』の意見に、学生たちも無言で頷いている。

 実はこのとき、隆嗣は故郷の父のことを思い出していた。家では寡黙で、めったに隆嗣や妹を叱るようなこともなかった。明るい母が父への通訳係で、母がいなければ父との会話など3分も持たない。東京の大学へ進学したいと言った時も、今回の留学を伝えた時でも、「そうか」と言うだけで、公務員の限られた給料から出来るだけの援助をしてくれた。

 そんな父がずっと続けていたのが、反核運動へのボランティアだった。昭和20年8月9日、当時小学生だった父は、疎開していた諫早の農家から母に手を引かれて長崎市内の親戚を訪れるために向かっていた路上で、立ち昇るキノコ雲を見たそうだ。

 当初は原水禁、つまり原水爆禁止日本国民会議に属して活動していたが、その組織が平和運動団体の枠を越え、自ら政治的活動に走り左派系政党の思惑に揺さぶられるようになると、父はそんな生臭さを嫌って独自の歩みを進めた。純粋に反核反戦を願う同志たちと『原爆を語り継ぐ』会を主催し、地道に活動を続けていた。

 県庁職員として出世することを放棄して活動に熱心になり過ぎたと母がこぼしていたが、そんな母も、実際は長崎の女として父を後押ししているようだ。

「やらなくてはならないこと」と短い言葉で括り、思想ではなく義務として自分に課している父だが、その活動も決して子供たちにまで強いることはなく、ただ黙々と自分の役割を勤めていた。おそらく今も、44回目の『原爆の日』へ向けた準備を進めていることだろう。