橘玲の日々刻々 2017年3月30日

コロンビア大学黒人名物教授が提言する
”「ドラッグの非犯罪化」による黒人の救済”
[橘玲の日々刻々]

 今回は名門コロンビア大学の名物教授カール・ハートの『ドラッグと分断社会アメリカ』(早川書房)を紹介したい。

 ハートがなぜ「名物」なのかというと、本人も認めるように、彼がアメリカの黒人のなかではきわめて数少ない心理学教授だからだ(同様に経済学の教授も少なく、数学や物理学などではもっと少ない)。

 そのうえハートはレゲエミュージシャン、ボブ・マーリーのような奇抜なドレッドヘアでテレビなどにも積極的に登場し、きわめて過激な主張をしている。それは「マリファナなどソフトドラッグだけでなく、コカインのようなハードドラッグも非犯罪化すべきだ」というものだ。

『ドラッグと分断社会アメリカ』はふたつのパートから構成されている。ひとつはフロリダの典型的な黒人居住区に育ち、バスケットボールとラップに夢中の10代を過ごしたハートが、友人たちが次々とギャングスターになっていくなかで、いかにしてアカデミズムで成功したかを回顧した半生記、もうひとつはハートの専門である神経精神薬理学の知見から「根拠に基づいた」薬物政策への提言だ。

 アメリカにおいては、子ども時代にどんなに賢くても黒人が社会的に成功することは容易ではない。そんななかでハートは、高校卒業後、軍隊に志願したことで大学入学資格を得、数々の差別に耐えて学問の世界に踏みとどまった。その体験は興味深いが、それは本をお読みいただくとして、ここではドラッグに対するハートの主張に焦点を当ててみたい。

喫煙により摂取できる「クラック・コカイン」

 ハートが本書で取り上げるドラッグは、日本ではあまり馴染みのない「クラック・コカイン」だ。これは化学式では「粉末コカイン(コカイン塩酸塩)から塩酸を除去したコカイン塩基だけの化合物」と説明される。

 粉末コカインとクラック・コカインは化学構造がほぼ同じで人体に対する効果も変わらないが、使用方法が大きく異なる。

 神経精神薬(ドラッグ)が効果を及ぼすためには、血管に注入された化学物質が脳に到達する必要がある。このとき、薬物が早く脳に到達するほど強い薬理作用が現われる。

 南米にはコカの葉を噛む風習があるが、こうして摂取された少量のコカインは小腸の壁を通って血流に入る(アルコールと同じく、満腹では薬物の吸収が遅れるので薬理作用が現われるのも遅くなる)。小腸から吸収されたコカインはその後、肝臓を通過することになるが、肝臓は口から入った毒物を解毒し脳を保護するための酵素を生産している。その効果でコカインが分解され薬理作用が大幅に弱められるのが「初回通過代謝」で、ドラッグユーザーはこの効果を知っていて薬物を錠剤やカプセルとして経口摂取することを好まない。

 一方、鼻から吸引されたコカインの粉末は肝臓を迂回することができる。アメリカ映画では粉末コカインを細かく砕いて鏡などの上に線(ライン)を引き、ストローなどで吸引する場面がよく出てくるが、これだと薬理作用を感じるまでに5分くらいしかかからない(口から摂取すると30分ほどかかる)。

 鼻からの吸引よりももっと効果が高いのは静脈注射で、血液中に注入されたコカインは心臓を通過してすぐさま脳に運ばれるためほぼ即座に精神高揚作用が現われる。だが静脈注射は心理的にハードルが高いし、汚染した注射器や減菌していない器具の使いまわしによってエイズなどに感染する恐れもある。

 それに対してコカインを喫煙できれば、血管を介して病気に感染する危険を避けつつ、静脈注射と同じくらい早く薬物を脳に到達させることができる。肺は表面積が大きいので、喫煙するとたくさんの血管によって薬物が血中からすばやく脳に運ばれるのだ。

 粉末コカインを喫煙できるまで過熱すると、分解して効果がなくなってしまう。だが塩酸を除去したクラック・コカインは気化する温度でも安定しており、喫煙によっても粉末コカインを注射したときと同じくらい効果的な作用が得られる。

 それまで粉末コカインは、ウォール街などの金持ちの白人(ヤッピー)の嗜好品とされ、黒人はほとんど手を出さなかった。だがマリファナと同じように喫煙できて効果の高いクラック・コカインは、ラップやヒップホップを通じて黒人の若者たちのあいだに急速に広まっていく。

 クラック・コカインが登場するのは1980年代はじめだが、当時は科学者もその薬理作用を正確に理解しておらず、新奇な薬物の蔓延を目の当たりにしてアメリカ社会はパニックに陥った。こうして「クラック・コカインの悪魔視」が始まったのだとハートはいう。

「クラック・コカインの悪魔視」

 1914年の『ニューヨーク・タイムズ』には、「コカイン『中毒』の黒人は南部の新たな脅威」と題された、医師が執筆した次のような記事が掲載されている。

 黒人のほとんどは貧しく、読み書きができず、怠惰である……いったん薬物の常用癖ができてしまったら、更生の見込みはない。黒人を薬物に近づけない唯一の方法は収監である。ただし、これは一時しのぎの策にすぎない。なぜなら、釈放された黒人は、かならずまた常用するからだ。

 [コカイン]はほかにも、「中毒者」をとくに危険な犯罪者に変えるいくつかの病的状態を生じる。このような病的状態のひとつが、ショックに対する一時的な免疫である。「強烈な一撃」、つまり致命傷に対する耐性ができるのだ。正気の人間は、弾丸が急所に当たったらその場で倒れるのに、「中毒者」は弾丸でも阻止できない。

 コカインは黒人を凶悪な「ゾンビ」に変えるのだから、中毒者を射殺するには威力のある弾丸が必要だと保安官たちは断言した。専門家たちは議会で「南部の白人女性に対する攻撃のほとんどは、コカインの乱用で異常な精神状態をきたした黒人による直接的な結果だ」と証言した。その結果1914年に、実質的に薬物を禁止する「ハリソン麻薬税法」が成立する。

 これと同じことが70年後に、今度はクラック・コカインで起こったのだとハートはいう。だがそこには、ひとつ大きなちがいがあった。1910年代は白人がコカインを使う黒人を悪魔視したが、1980年代は白人と黒人がともに、クラック・コカインを悪魔視したのだ。

 1986年6月、大学バスケットボールのスター選手レン・バイアスがクラック・コカインの喫煙によって死亡したと報じられると、集団ヒステリーはさらに激しくなった。だがこの22歳の選手は、じつが粉末コカインを使っていたことがわかった。

 同じ月に全米プロフットボールリーグ(NFL)クリーヴランド・ブラウンズのディフェンシブバックで23歳のドン・ロジャーズが死亡し、やはりコカインが原因とされた。2人の若いスポーツ選手が絶頂期にあいついで亡くなったことで、一般市民はコカインの影響は恐ろしいほど予測がつかないと思い込むようになった。

 黒人の公民権活動家ジェシー・ジャクソンは、バイアスの追悼演説で「われわれの文化は、娯楽や気晴らし、逃避のかたちとしての薬物を拒絶しなくてはなりません……クー・クラックス・クランのリンチよりも薬物のせいで多くの命が失われているのです」と語った。

 こうして黒人自身が、より多くの警官やより長期間の刑罰を求めはじめ、クラック・コカインを、わが子を手の施しようのない怪物に変貌させる元凶とみなすようになった。これが、クラック・コカインに対する厳罰化の始まりだ。

 1986年に制定された反薬物乱用法は、ハーレム出身の黒人でニューヨーク選出の下院議員の旗振りで成立したが、5グラムのクラック・コカインを密売したとして有罪判決を受けた者は最低でも5年間服役しなくてはならない。粉末コカインの売買では同等の期間の刑が申し渡されるのは500グラムで、量刑に100倍もの格差がある。

 この反薬物乱用法のもとで投獄されたのは、黒人が圧倒的に多かった。たとえば1992年にはその割合は91%、2006年には82%を占めている。

 クラック・コカインの影響が過大に報じられたことで黒人社会に恐怖が植えつけられ、黒人政治家の主導で厳罰化が進められた結果、多くの若い黒人が刑務所に送られることになった。皮肉なことに、黒人の若者を犯罪から守ろうとして、黒人コミュニティは崩壊の危機に瀕してしまったのだ。そしてこれは、本来であれば不要なことだったとハートはいう。なぜなら粉末コカインとクラック・コカインは、薬理学的な効果としてはまったく同じものなのだから。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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