──働き方改革実現会議は、9月27日にスタートして3月いっぱいまでという限られた期間のものでした。
 
 そうですね。政府が示したものだけでも9つという非常に幅広い論点があり、「働き方改革」という大風呂敷を広げる中で、3月いっぱいという期限が切られていましたから本当に大変でしたし、労働時間の上限規制の議論が始まった2月1日からの1ヵ月半は、まさに筋書きのないドラマでしたね。

 そもそも私は、唯一労働者の代表者として参画している会議の議論が、淡々としたものであってはならないという強い思いを持って臨んでいました。連合として格段のこだわりを持っていたのは、「長時間労働」と「同一労働同一賃金」ですね。これら2つについては言うべきことをとにかく言って、会議のアウトプットを少しでも自分たちの理想に近づけたいと思っていました。

残業100時間が一人歩き
看過できないとかみついた

 中でも、そういう思いを強くした出来事がありました。それまで、時間外労働に上限規制を設けるという方向性は示されていたのですが、1月末になって新聞各紙が「繁忙期は100時間」というタイトルで、上限の「政府案」を相次いで報じたのです。一部全国紙は当初80時間と報じていたにもかかわらず、いつの間にか100時間として、数字が一人歩きし、流れができてしまっていたんです。

 なんだこれは、まるで忙しいときは月に100時間残業するのが当たり前と言っているようなものではないかと憤りました。これは看過できないと、2月1日の会議で「1ヵ月100時間なんて到底あり得ない」と発言したのです。反映されようがされまいが、連合として言うべきことはその都度の会議で全て言い切ってきました。

──途中で安倍晋三首相から「労使で直接話し合え」と指示され、連合と経団連による、突然の労使交渉が始まるなど、意外な展開を見せました。

「労使の合意がなければ法改正はおじゃんだ」と総理から言われ、まさに瓢箪から駒の労使協議となったわけです。私と経団連の榊原定征会長は1回目の時だけで、後は事務局同士で協議を重ねていきました。内容的にはかなりのバトルを繰り広げたのですが、いずれの事務局も真摯な姿勢で臨み、話し合いをまとめていきました。

──怒鳴り合いのようなバトルを繰り広げたのですか。

 まあ、それは分かんないけど(笑)。しかし、互いに真摯に向き合っていましたよ。じゃないと(最終的な勤務終了時から翌日の始業時までに、一定時間のインターバルを保障することにより従業員の休息時間を確保しようという)インターバル規制の努力義務を盛り込むなんてことにはならなかったわけですから。

──議論の中心は何だったんですか。

 インターバル規制の導入と過労死・過労自殺対策、長時間労働の上限規制ですね。我々としては、100時間という数字が一人歩きすること自体がおかしい、原則は月に45時間ですよという主張だったわけです。36協定を結んで、残業が必要だと労使が認識したとしても、それは本来45時間で収めなければならないわけですよ。

 でも、それが今まで名目だけになっていて機能していなかった。それをきちんと法律に書き込んで、労使でやっていきましょうという話になったのです。45時間を超える残業がなぜ必要かをきちんと書き込まなければならないし、それを労基署がチェックする。そういう合意がなされたわけです。

 マスコミでは、100時間以上か未満かという点ばかりクローズアップされましたが、経団連としても100時間が一人歩きすることは本意ではなかったし、同じ問題意識を持って前向きに取り組んでいた。だから、これだけの短い期間で交渉し合意にこぎ着けることができたわけです。