「投資」に値する人間になる

「投資」される人材になる、たったひとつの鉄則小西史彦(こにし・ふみひこ) 1944年生まれ。1966年東京薬科大学卒業。日米会話学院で英会話を学ぶ。1968年、明治百年を記念する国家事業である「青年の船」に乗りアジア各国を回り、マレーシアへの移住を決意。1年間、マラヤ大学交換留学を経て、華僑が経営するシンガポールの商社に就職。73年、マレーシアのペナン島で、たったひとりで商社を起業(現テクスケム・リソーセズ)。その後、さまざまな事業を成功に導き、93年にはマレーシア証券取引所に上場。製造業やサービス業約45社を傘下に置く一大企業グループに育て上げ、アジア有数の大富豪となる。2007年、マレーシアの経済発展に貢献したとして同国国王から、民間人では最高位の貴族の称号「タンスリ」を授与。現在は、テクスケム・リソーセズ会長。既存事業の経営はすべて社著兼CEOに任せ、自身は新規事業の立ち上げに采配を振るっている。著書に『マレーシア大富豪の教え』(ダイヤモンド社)。

 独立の地として選んだのは、このペナン島でした。
 なぜなら、イギリスの東南アジアにおける初の植民地であったこともあり、インフラが完璧に整っていたからです。それに、染料の営業ルートの「終点」に当たるために、数えきれないほど訪問を続けるなかで、マレーシアのなかでも最もリベラルな気風で、外国人である私がビジネスをするのに最適の土地だと確信していました。

 いや、それ以上に、私はペナン島が大好きでした。「ここに住みたい」とずっと思っていたのです。はじめてペナン島に来たときのことは、いまでも鮮明に覚えています。マラヤ大学留学中に、バイクでマレーシア全土を旅して回ったときのことです。

 ペナン島の対岸のバターワースからはフェリーが出ています。早朝にバターワースにたどり着いた私は、早速乗船。海風を受けながら、ペナン島のほうをぼんやりと眺めていました。

 霧が濃い朝でした。
 風に流されて霧が流れていく向こう側に、木々が青々と茂るペナン島が見えます。近づくにつれ、少しずつ島の様子がわかりました。イギリス植民地時代に建てられた、石造りの時計塔を中心に、オレンジ色の屋根の低層住宅が立ち並んでいました。その背後には標高833mのペナンヒルがそびえる。その瑞々しくしく美しい島の姿に、思わず息を飲みました。こんな素晴らしい場所があるのか……。このときに、私は、いつかペナン島に住むと心に決めていました。この島にほれ込んだのです。

 だから、私は迷わずペナン島への移住を決断。出資者の事務所の一角を間借りして、化学品専門商社テクスケム・トレーディングを設立。たったひとりでビジネスを始めました。

 元ボスからは執拗(しつよう)な妨害工作を受けました。彼にすれば、日本製染料の輸入販売というビジネスを奪われる恐れがあるわけですから、当然の反応だったのかもしれない。しかし、これには困った。驚くことに、マレーシア政府に対して「小西は日本の産業スパイである」という虚偽の告発をしたのです。ワークパーミットを停止されれば万事休すです。
 このときには、親しい取引先でマレーシア・バティック(更紗)生産業者のマレー人が助けてくれました。彼は、マレー人社会で多くの信頼を集める人物。その彼が、政府まで出向いて、担当官に私のことを縷々(るる)説明。告発が虚偽であることを保証してくれたのです。

 このように、私は、染料の営業で培った人間関係に全面的に救われました。彼らがいなければ、いまの私は絶対にありません。感謝してもしきれない人たちです。

 では、なぜ、彼らはそこまでして私を助けてくれたのでしょうか? もちろん、彼らは私に好意をもってくれていたとは思いますが、それだけでは、あれだけの支援はしません。それは、私が「得」をもってくる人間だったからです。独立資金を出資するのはもちろん、私の独立のために奔走(ほんそう)してくれたのも、すべて彼らにとっては投資です。その投資に見合うリターンをもたらす人間であると、私を評価してくれたからこそ助けてくれたのです。

 つまり、セールスマンシップが私を救ってくれたのです。セールスマンシップは、人生の危機をも救ってくれる大切な「武器」なのです。

 これは、何も営業職の人にだけ求められるものではありません。どんな仕事でも、セールスマンシップが基本です。自分の「得」を考えるのではなく、まず相手の「得」を考える。これができれば、誰かに投資してもらうに値する人間になれる。そして、どこへ行っても生きていけるようになるのです。