相手に学ぶ姿勢が「人間関係」をつくる

 たとえば、こんなエピソードがあります。
 30年間、私の運転手として働いてくれた回教徒のマレー人男性がいました。当時、彼はマレーシアの最北端にある田舎に住んでいたのですが、あるとき、若くしてなくなった親友の奥さんと結婚することになりました。すでに妻も子どももいるにもかかわらずです。

 マレーシアの約65%は回教徒のマレー人。そして、マレーシアでは、宗教法で4人まで妻をめとることができると定められています。実際には、回教徒の99%以上は妻がひとりですが、法律上は、男性のみ重婚が認められているわけです。

 これは、日本人である私たちからすると、理解しがたいことです。私たちの尺度からすれば、重婚ということ自体に違和感がありますし、男性にのみ認められていることがアンフェアに感じられるからです。

 だから、私も彼の話を聞いて驚きましたし、私の妻は、強い嫌悪感をもったようです。しかし、そう感じるのは日本人の価値観にとらわれているせいかもしれない。だから、「なぜ、そうするのか?」と率直に尋ねました。すると、彼は、こう教えてくれました。

「田舎の村落社会では、誰かが手を差し伸べなければ、夫を亡くした女性は生活をしていくことができません。私は、親友に頼まれて、彼女とその子どもたちを養うことにしたのです。私は小西さんの会社で雇っていただいているのだから、親友の家族を助けるのは当然のことなのです」

 私なりに調べると、これはイスラム教における「喜捨(きしゃ)」の考え方に基づく行為だということがわかりました。喜捨とはエジプト語では「バクシーシ」と言います。エジプトを旅行していると、子どもたちが口々に「バクシーシ、バクシーシ」と言いながら近寄ってきます。多くの日本人は、ただ「恵んでくれ」と言っているように思うかもしれませんが、本来は「喜んで与えなさい」という意味です。エジプトの子どもたちにとって1000円は大金ですが、ツーリストにとってはたいした金額ではないだろう。だから、分け与えるのが当然だという考え方です。

 ずいぶん図々しい考え方だと思うかもしれませんが、むしろ注目すべきなのは、彼ら自身が恵まれた立場に立てば、そうではない人に「喜んで与える」という教えに従うことです。実際、裕福な回教徒は常に喜捨するためのお金を用意しています。そして、喜んで与えるのです。

 つまり、私の運転手が親友の妻をめとったのは「喜捨」の実践。イスラムの教えに基づいた、人間の救済だと理解しました。だから、私は彼の選択を「アンフェアだ」と考えるのを改めて尊重することにしました。実際、彼は真面目に働いて、親友の奥さんとお子さんをしっかり養いました。そして、息子さんが結婚したときには、私も心からのお祝いをしました。彼もとても喜んでくれたことを覚えています。イスラムの考え方を学ぶことで、彼との人間関係を深めることができたのです。相手に学ぶ姿勢が大事ということでしょう。