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(2008年11月、上海)

 この数ヶ月の間に、情勢は激変していた。

 9月に起きたアメリカの銀行破綻を契機に、世界中で時限爆弾が炸裂してあらゆる株式市場が打撃を受けた。米ドルとユーロは凋落し、為替市場も何を信用してよいのか判らず迷走を続け、人々は金融不安による世界恐慌の足音という幻聴に怯えていた。

 それは決して幻聴などではなく、現実の悲鳴に替わることが定まっているシナリオである。薄皮一枚下の地獄絵図を知りながらも、それに目を逸らして踊っていた人間たちが招いた喜劇に、世界中の善良で無知な人々の生活が揺さぶられ始めていた。

 北京オリンピックを成功させた熱気も既に冷え込み、世界中に渦巻く不安と猜疑心という暗雲に中国も厚く覆われ始めていた。

 そんな中、上海浦東空港の国際線出発ロビーには、クアラルンプール行きの便に乗り込む李傑、幸一、石田の3人を見送るために、隆嗣と慶子も顔を揃えていた。

 慶子は上海へ戻り、かつてのマンションに住んで、隆嗣の事務所で仕事を始めていた。隆嗣が彼女に求めた仕事はいたってシンプルだった。従来から流れている多様な商品の貿易業務の中で、慶子自身が出来そうな仕事をピックアップして携わること。それ以外の仕事は、隆嗣がどんどん取り引きを止めていった。

 業務を縮小する中で自分を上海へ呼び寄せたのは無駄ではなかったのかと、恐る恐る尋ねたこともあったが、「世界が大きな転換期を迎えた今、会社を身軽にしておく必要があるからね。それに、私もそろそろ楽をしたいと考えていたから、君に来てもらったんだ」と、隆嗣は弱い笑みを湛えながら要領の掴めない説明をしていた。

 実際、日々の業務は慶子と中国人スタッフに任せきりで、隆嗣はオフィスでもぼんやりしていることが多かった。お蔭で、慶子はそれなりに忙しく、時間が空いた週末には幸一が待つ徐州で過ごせる幸せも取り戻し、充実した人生を取り戻していた。

 しかし、そんな彼女も、一つだけ不確かな疑問を抱えていた。

 伊藤さんの元気がない様子を伝えても、幸一はあまり反応せず、意図的に隆嗣の話に乗ってこないような気配を感じていたので、慶子は気になっていたのだ。私が上海へ戻ってきた時には、彼は涙を流して「伊藤さんのお蔭だ」と言っていたのに。二人の間に何かあったのだろうか、久し振りに皆が顔を会わせたこの浦東空港でも、幸一と伊藤さんは、お互いを無視するように会話が少なかった。

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