ちょうどその頃、「オーラの泉」についてある機関紙から取材を受けました。その機関紙は、社会的に弱い立場の人たちを支援する団体が発行するものです。記者の方は誠実な人で、江原さんの日本武道館での講演会を取材し、衝撃を受けたというのです。

 会場にいたのは、流行に敏感な若い女性ではなく、病気などで切実に生活に困っている人たちだったそうです。江原さんは会場の何人かをステージに上げ、霊視をしてから優しい言葉をかけてあげたといいます。その言葉に涙を流す人たちを見て、記者は「本来私たちが救うべき人がここにいる」と思ったそうです。なぜ江原さんにできて、自分の団体にはできないのか。記者は思い悩み、私のところに取材に来たのです。

 いつも思うのですが、こうした市民運動に関わっている人たちは、商業主義やエンターテインメントの匂いに対して嫌悪感を顕わにします。

 しかし、多くの人たちが見たがっているのは、商業主義化されたエンターテインメントなのです。そう言うと市民運動家は「そんな人たちに媚びてまでわかってもらおうとは思わない」と切り捨ててしまう傾向があります。媚びたくないという気概はわかりますが、そのために自分たちの主張が葬られても構わないのでしょうか。