「浅草らしさ」が消えていく…観光客急増と開発ラッシュの功罪浅草ロック界隈には、日本人のみならず外国人観光客の姿も多く見られる
Photo by Konatsu Himeda

この5月の連休に何年か振りに雷門をくぐったが、大変な賑わいに驚かされた。地方からの観光客に外国人客も加わり、仲見世は年越しの参拝を思わせる人出である。特に浅草ロック界隈は、大手小売店や飲食チェーン店の出店に加え、ホテルの開発ラッシュが進む。地元不動産業者も「六区の“下町感”は急速に薄れている」と舌を巻くほどだ。その変化はあまりにも激しい。(ジャーナリスト 姫田小夏)

「大衆文化」「昭和レトロ」再評価で
平成の世にも“ロックファン”は健在

 浅草はこの先、いったいどこに向かうのだろうか──。そんな思いを抱きながら、筆者は“ロック”に向かった。

 “ロック”といえば、ストリップ劇場の『浅草ロック座』を想起させるが、ロックは「六区」の俗称で、1884年(明治17年)、明治政府が浅草寺の土地を召し上げて造成した浅草公園を六区画(一区=本堂周辺、二区=仲見世一帯、三区=伝法院、四区=奥山、五区=花屋敷、六区=見世物移転地)に分割したことに由来する。

 その後、日本を代表する歓楽街として発展、一時は“取り残された下町”という暗い時代もあったが、「大衆文化」「昭和レトロ」が再評価され、平成の世にも“ロックファン”は健在だ。

 筆者は仲見世通りから“六区”に向かった。伝法院の前を右折すると、なんとそこは「ホッピー通り」に変わっていた。このネーミングは近年のものだろう。かつてここは、朝鮮半島出身の人々の生活の場所だった。今でこそ、チョゴリを仕立てる店が残るが、昔ながらの店といえばお好み焼き屋「つくし」しか視界に入らない。軒先に丸椅子を出し、露天でホッピーをあおる、そんな居酒屋がずらり並ぶ。