チュアが、もう1枚の書類を李傑の前へ差し出した。ヘッドには『CERTIFICATE OF INSPECTION』と記してある。

 李傑が書類を手にとって、目を通しながら催促の空咳をひとつ鳴らした。それに気付いたチュアが目配せし、頷いたインド系の男が、手にしていたダンヒルの小振りなトラベラーバッグを李傑の前に置いた。

「先にお渡ししておきましょう。そのバッグも、サービスでお付けしますよ」

 男が黒い顔の中にニヤリと白い歯を覗かせて言った。李傑がその黒レザーの口を開くと、束ねられた紙がぎっしり詰まっていた。検めると、100枚ずつ封をされた100ドル紙幣が10束ある。もちろんシンガポールドルではなく米ドルで、すべて新札だ。

「もし御心配でしたら、銀行の真贋鑑定機とカウンターを持ってこさせますが」

 チュアの申し出に首を振った李傑が、無感動を装って答える。

「いや、結構だ」

 そして、取り出した万年筆で書類の下部に『董事長・李傑』と署名した。

 三者は手続きを終えて握手を交わした。一緒にランチへ行こうと誘うチュアを拒み、李傑は一人でタクシーに乗り、空港へ引き返すことにした。用が済んだ今となっては、彼らと一緒にいることに嫌悪感を抱き始めたのだ。

 チャンギ空港に戻ってレフトラゲッジに預けていた自分のキャリーバックを受け取り、ダンヒルのトラベラーバッグを肩から大事そうに吊るして空港内を見渡した。

 まだ時間に余裕がある。李傑は目に付いたカフェレストランに入って、ワンタンヌードルとビールでささやかな自分への祝杯を上げた。広い空港内を通り過ぎていく、あらゆる国籍、多種多様な民族の顔を眺めながら、今回の短い出張を振り返っていた。

 マレーシアとシンガポール、これら多民族国家の躍動と退廃を脳裏に刻んだ彼は、中国は漢民族の名の下で一つにまとまっていることに感謝した。実際には、中国にも50以上の少数民族が存在しているのだが、彼の脳裏には存在していないようだった。

 腕時計に目を落とすと3時を回っていた。ほどよい時間だと腰を上げて歩き出す。大きな掲示板を見上げてフライトをチェックし、シンガポール航空のカウンターへ近付いた時だった。

 いきなり後ろから肩を叩かれて、驚いて振り返った。目に入った人物を見て、更に息が詰まりそうになる。