「普通、酒造りは冬場に行うものなので、夏の仕事をつくろうと思って地ビールとレストランを始めました。ところが、当時の年商は2億円ほどですが、これにほぼ匹敵する損失を出してしまいました。そんな会社ですから杜氏は来てくれません。しかたなく、社員と一緒に酒を造り始めました」

フォーラムの最後には旭酒造から提供された獺祭の飲み比べも開催。グラスを傾けながら、参加者同士の新たな出会いが生まれた

 杜氏がいなかったから、製造革新ができた。その一例が、通年稼働による高稼働率の実現だ。空調設備の整備により、冬季限定の酒造りから脱却。社員や製造設備の稼働率を高めたことで、高価な山田錦を贅沢に使いながらも、低コストの純米大吟醸を生産できる体制が生まれたのである。

 負け組だったから、しがらみを破ることができた。突破した先にあるビジネスチャンスをものにした桜井氏のチャレンジはこれからも続く。

「日本酒の本当の力は、こんなものじゃない。もっと上を目指さなければいけないと思っています。例えば、ワインには安価なものもありますが、非常に高価なものもあります。ピラミッドの頂点に位置するブランドがワインにはありますが、残念ながら、まだ日本酒にはない。ここに挑戦したい」と語る桜井氏の姿勢は、どこまでもアグレッシブだ。

バブル崩壊後に
出会った職人の技

 隈研吾氏もまた、“負け組体験”の持ち主だ。1980年代のバブル時代、30歳そこそこの隈氏は多くの仕事を抱えて奔走していた。しかし、バブル崩壊により状況は一変する。

隈 研吾
隈研吾建築都市設計事務所 主宰

「90年代、東京でのプロジェクトは一つも手掛けていません。東京で仕事がなくなったので、いろいろな地方の仕事を手掛けました。それが、地方の職人と一緒に仕事をする機会になりました」と隈氏は振り返る。職人の技を最大限に生かす建築、それは現在の隈建築の重要な要素となっている。大工や左官など日本の職人は第一級だと隈氏は言う。

「カリスマ職人でなくても、平均的な職人が非常に質の高い仕事をしてくれる。海外と比べても、日本の職人のレベルは圧倒的に高いと思います」

 海外でも多くのプロジェクトを手掛けてきただけに、その言葉には実感がこもっている。隈氏によると、海外の建築現場では図面とまったく異なるものができることもあるそうだ。寸法を無視した建物ができることもある。また、「寸法は合っていても違う」場合もあるという。

「例えば、木材のどの部分を使うか。あるいは、杉などの木の色のバランスをどうするか。こうした情報は、図面には描き切れません。職人の経験やノウハウに頼らざるを得ない部分です。図面だけでは足りない部分を職人が補ってくれなければ、素晴らしい建物を造ることはできません」

 バブル期に忙しかったころ、経験豊かな職人との出会いはほとんどなかったという。「地方で仕事をしたからこそ、多くの職人に出会い、多くを学べました」と隈氏は語る。