切迫した情況のなかで生まれた、
製作メンバー間のチームワーク

――いつ、4月14日発行と決まった?

木村 3月22日(月)に決まりました。雑誌的なスケジュールを組めば行けるかな、と。営業の人も、22日にはコンビニチェーンに商談に行って、部数などを相談してきてくれました。

――取材が始まったのも22日から?

木村 はい、中野の生活設計塾クルーのオフィスで、22日~24日の3日間でやりました。この頃は、クルーの方々も他のメディアから災害関連の取材が多く、その時間を掻き分けて、時間もらいながらインタビューし、ライターさんはそれを原稿にしていくというパターンです。この3日は、私は会社に行って営業の方と発行日や定価などの相談したり、中野のオフィスで取材したりといったりきたりでした。

 この頃は計画停電が始まっていたんです。クルーのメンバーのお一人に、八王子にお住まいの方がいたんですが、この方が中野に出られるのが大変で取材で一番苦労しました。原稿をチェックしてもらうのも、停電になると回線がつながらなくなるので、計画停電のスケジュールとにらめっこしながら進めました。

――入稿は?

木村 早いものは24日(木)からですね。図版も原稿も遅くても28日(月)までにという予定でした。それから初校ゲラが30日(水)。この日は校正者さんにも会社まで来ていただき、クルーの方々にも見ていただき、戻したのは4月2日(土)。

 再校ゲラは、4日(月)に出てきましたが、この日は、バイク便でゲラを深田さんのところに送り、それを深田さんが夜の8時ごろ、見終わったゲラを、なんと私の家までランニングで持ってきてくださいました。深田さんは5キロマラソン大会前で「練習には往復でちょうどいい距離」なんて仰ってくださって。編集者としては申し訳ないですが、助かりました。私はそれから夜中にゲラをチェックして、翌朝(5日)ゲラを戻して製作プロセスは終わりました。

 それと、今回の震災の名称が「東日本大震災」という名前に閣議決定したのが4月1日だったんです。ちょうど校正をやっている段階で、この言葉に差し替えていきました。

 見本は8日に出来上がったので、下版から3日後ですね。それで無事に予定の4月14日に間に合いました。

――お疲れさまです!

木村 あの頃は、それほど大変とは不思議と思わなかったですね。クルーの方々みなさん、それからライターさんもすべて女性だったんです。みんなああいう情況でテンションが上がっていましたし、何か役立てることが励みでもありました。だから皆が一同に集まって仕事をしたわけではないのですが、チームワークのような一体感もありました。私はハブのような役割だったので頻繁にいろんな人と連絡取り合っていましたが、誰に電話しているか途中わからなくなることもありましたが(笑)、本当に皆さん、よくやってくださいました。

――印刷所もよく対応してくれた。

木村 そうなんです。初版部数も営業がコンビニエンスストアにも置いてもらえるよう交渉してくれて、当初の倍以上になりました。当時は紙の流通が一部麻痺していました。それでも「北海道から紙を調達するから」と言ってくれて、あの時間のないなか、無茶なスケジュールに対応してくれました。