金融業界は今や、政治を動かし、一度揺らいでしまえば日々の暮らしを左右する存在になってしまった。世界的に尊敬を集める世界最高のエコノミストの一人であるジョン・ケイは、最新刊『金融に未来はあるか』で、他の産業とは違う特別な存在であるかのように語られる金融業界の神話を切り崩し、巨大銀行の業務の大半が社会にとっていかに有害無益であるかを解き明かす一方で、リーマン・ショック後、金融業界の肥大化を抑制するために導入された膨大な規制も逆効果だと断じ、銀行を「よそ様のお金を預かる」まっとうなサービス業に回帰させていくための全く新しい改革案を提示する。フィデューシャリー・デューティー、ガバナンス・コード、スチュワードシップ・コードなどを提唱し、日本の金融庁などにも大きな影響を与えたことでも知られるジョン・ケイのザ・エコノミスト、フィナンシャル・タイムズ、ブルームバーグでベストブック・オブ・ザ・イヤーを獲得した著作『金融に未来はあるか』からエッセンスを抜粋する。

ギャンブルの偶然を自分でコントロールできると
思いこむ人が多いのはいったいなぜなのか?

 毎週、何百万人もの人々が買い求める宝くじは、賭けである。皮肉屋のアドバイスによると、締め切りぎりぎりに買うほうがお得だ。さもないと1等を勝ち取る確率よりも、結果が出る前に死ぬ確率のほうが高くなるから。

 しかしこの計算は、宝くじを買うという行為を誤解している。宝くじを買う人は夢を買っているのだから、夢が手元にある時間が長ければ長いほど、喜びは増すというものだ。お馬鹿さで知られた実験によると、学生たちはお気に入りの映画スターから3時間後にキスしてもらえる場合よりも、3日後、あるいは1年後にキスしてもらえるほうにずっと多くの金を払うことがわかっている。

 宝くじの常連客がいつものように金をすってしまったとき、彼らは来週また買ってやるぞと心に誓うことで、夢をつなぐことができるのである。「当たるのはあなたかも」というのは、英国で国営宝くじが始まったときの、うまく練られたうたい文句だ。

 宝くじの主催者は、どうすれば魅力的な商品設計になるかを、長年の経験から学んでいる。飛び切り大きい賞金を2、3種類そろえれば、夢は一丁上がり。あとはごく少額の賞金を多数用意することで、客に「当たるのはあなたかも」と信じ続けさせることができる。

 本当は単なる偶然で決まるゲームでも、参加者が数字を選んだり、カードを置いたり、スロットマシンのレバーを引くといった行為を通じて勝敗に影響を及ぼせるという印象を醸し出せば、人気はいっそう高まる。旅客機に乗るほうがマイカーを運転するよりずっと安全なのだが、われわれはそういうふうに物事を見ない。何がしか自分でコントロールできる要素があるほうが、リスクにさらされにくい感じがするものなのだ。

 ほとんどの人々は、自分が平均よりは車の運転がうまいし、恋愛も人並みより上だし、たいていのことは人並み以上だと思っている。持っている株は上がるだろう、雇っているファンドマネジャーは最高だ、採用した顧問は切れ者だ──。多くの人々が、自分のパートナーは人並みより魅力的だと思っていなかったとしたら驚きだ。いやもちろん、人並み以上ですとも。だからこそわれわれは、このファンドマネジャーを雇ったり、あの株を買ったり、それぞれの配偶者と結婚したりするのだ。

 金融商品の宣伝は往々にしてコントロール幻想と、各々が自分の判断力について抱く過信を巧みに利用している。貯蓄者の最もありふれた夢の追い方といえば、自分には相場の天井と底を見事に見極めたり、運用成績が平均を上回る銘柄やファンドマネジャーを選ぶ能力があると信じることだ。そうではないことを示す証拠のほうが圧倒的に多いのだが。一貫して市場平均を上回る成績を収められる投資家やマネジャーなど、めったにいるものではない(これに関する研究は数多くある)。

 アクティブ運用型ファンドは、全体として見たとき、手数料の分だけ市場平均よりも低いリターンしか上げていない。個人投資家に至っては、買いと売りのタイミングを見誤るものだから、投資ファンドの平均に比べても成績は劣る。腕前と偶然が両方作用するポーカーなどのゲームのように、並みの投資家を出し抜いて儲けるような、天賦の才を備えた一握りの連中というのはいる。もっと多いのは、最近ついているのは自分の腕前が並み外れているからだと自らに、そして多分周りの連中にまで言い聞かせる人々だ。

合理的な専門家たちが
どうしようもなく間違っている理由

 夢を追い求め、コントロールを好み、楽観に傾くきらいがあるというこれらの特徴は、心理学者のダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞して以来、行動経済学でおなじみになったテーマをめぐる数々の実験により繰り返し確認されてきた。こうした研究文献はたいてい、そんな行動をとるのは不合理ですよと、上から目線で教え諭してくれる。

 しかし普通の意味で言って、夢や楽観主義やコントロールを好むことは、何も不合理などではない。将来を夢見、物事を楽観的に捉え、自分の運命をコントロールしようとせずに生きていける者などほとんどいないだろう。宝くじはこうした行動上の特徴を利用して、公共の利益と個人の喜びの両方に役立てている。

 宝くじを買う人は、当たるかもしれないと思うだけでわくわくできるのだ。ほとんどの人は、たとえはずれくじであっても、ほんの少々の後悔はさておき、買ったことを悔やんだりしない。夢を負い求めるのは間違いなんかではない。

 説得的マーケティングの見事な成果と言おうか、経済学者は「合理性」という単語を専売特許にしてしまった。合理性は経済モデルの公理に当てはまるものと定義されており、特に不確実性という文脈で使われる「合理性」には、厳密かつ複雑な解釈が与えられている。「合理的な」人々は不確実な状況の判断に際し、さまざまな結果に確率を付与し、ひっきりなしに届く新たな情報に照らしてその確率に修正を加えていく。

 彼らは「夢を追う」ことなどしない。なぜなら、実際に起こる確率に応じてそれぞれの結果を比較考察するからだ。合理的な人々は起こり得るあらゆる結果を見極め、それらに確率を付与することができる。合理的な人々は物事を楽観的に見過ぎるバイアスや、コントロール幻想とは無縁だ。人々が「合理的期待」を持っている限り、彼らがリスクの高い選択を行ったときの結果は、物事が起こる相対度数によって検証できるはずだ。

 胸に手を当てて考えてみるまでもなく、大半の人間がそんなふうに行動しないことはわかりきっている。しかし、普通はそんなふうに考えるものだという前提こそが、「グリーンスパン・ドクトリン」の土台なのである。

 グリーンスパンより思慮深いロバート・ルービンは財務長官時代の回顧録『ルービン回顧録(原題:不確実な世界の中で)』で、確率論的な考え方の必要性を強調していた。だがルービンの著書の題名そのものが、決定的な相違点を無視している。

 確率の助けを得て説明できる「前例のある未知」、つまりリスクと、「前例のない未知」、言い換えれば「ブラックスワン」を区別していないのだ。後者は、われわれには問題とする出来事が何なのかさえわかっていない可能性があるため、確率など当てはめられない。車輪が発明される確率を判断できないのは、その可能性を思い描いた時点で、あなたは既に車輪を発明しているからである。

『金融に未来はあるか――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』より