大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐解きながら歴史を逆引きしていく。

社会主義者・荒畑寒村と
「ダイヤモンド」の意外な接点

 大正中期から「ダイヤモンド」は、相当量の臨時増刊号を発行している。なかでも1949年からときおり発行していた臨時増刊号「財界人物」が面白い。社内外のライターが財界や政界を取材し、多くの人物評を掲載している。サイズは本誌より小さく、B6判だ。総合雑誌のスタイルである。

 手元に古書店で購入した「財界人物」号が数点あるが、そのうちの1冊、1951年12月15日号をパラパラとめくっていると、意外なライターによる人物評に目が止まった。

 荒畑寒村が1951年11月に執筆した「和田博雄論」である(★注①)。

 荒畑寒村(1887-1981)といえば、幸徳秋水(1871-1911)堺利彦(1871-1933)の「平民新聞」、そして大杉栄(1885-1923)と1912年に創刊した「近代思想」や月刊「平民新聞」を舞台に社会主義者として活躍し、戦後1946年から49年までは日本社会党の衆議院議員も務めた日本近代史上の人物である。

 およそ経済誌「ダイヤモンド」には別世界の住人のように思えるが、じつは「ダイヤモンド」創業者、石山賢吉(1882-1964)とは大正時代から非常に親しかったのである。戦後は、1950年代から1970年代初頭まで、ダイヤモンド社編集局顧問として週に2度出勤していたほどだ。個室も社内にあったという。

 寒村が大杉栄と「近代思想」を創刊したのが1912年、石山の「ダイヤモンド」創刊は1913年だから、ほぼ同時期である。石山、荒畑寒村、そして大杉栄は世代もほぼ同じだ。寒村は長命で、1981年に94歳で没している。

 石山賢吉と社会主義者荒畑寒村、大杉栄の関係はおいおい取り上げるとして、今回は荒畑寒村が「ダイヤモンド」臨時増刊号に執筆した「和田博雄」論を読んでみたい。