蕎麦屋に通いつめ、亭主との会話を楽しんだ。
その体験が「はなれ」を形作るベースとなっている

 20歳の頃に心臓病を患った矢守さんは身体が頑強ではない。両親も近親者もそれこそ腫れ物に触るようだったという。

 血液の循環によいからと、両親が矢守さんのために選んだ食材が、りんごと蕎麦である。必然的に、信州の安曇野まで蕎麦を食べに出かけることが多くなった。

 いっぺんに蕎麦屋好きとなった矢守さんだが、ある時に姉がくれた蕎麦屋特集の本をきっかけに、それが高じてしまった。

 飲食店に勤めながら、休みの日にせっせと蕎麦屋に行き、亭主に声をかけてもらうのが嬉しかったという矢守さん。まるでタレントに憧れる追っかけのように、雑誌で見る亭主と会えるのを楽しみとした日々が続いた。

新富町「流石 はなれ」――目の前で亭主が自分だけのために蕎麦を打つという贅沢さりげなく客を迎える、矢守昭久さん。1人で客を相手にするため、自分のキャパ以上の客はとらない。それが人気の元になっている。

 蕎麦屋の亭主と会話する楽しさ、これを無上とした体験が、今の「はなれ」を形作るベースになっているのかもしれない。

「体が弱いです」と今でもいう男が、体力勝負のような蕎麦屋にどうしてなろうとしたのか、それほど蕎麦の魅力に勝てなかったということだろうか。

 修行時代、蕎麦屋は名店ばかりを2店経験するが、二つ目の店はある日、夜逃げ同然に飛び出したという噂話があった。僕はその話をある人から聞いた記憶があった。

「あれは僕が悪いんです。人に教えてもらおうという姿勢がそもそも間違ってたんです」。

 師匠が矢守さんにつらく当たったのは、その甘い態度を直せと求めていたということが、店を出てすぐにわかったという。以来、習うという考え方は捨てた。蕎麦打ちに必要なのは自分のものを創り上げることだと考えて、それを通してきた。

 そして、30歳の頃、当時人気店の道を駆け上がっていた銀座「流石」に入店した。6年ほどが過ぎ、「流石」で夜の部を任されていた時、経営者の藤田千秋さんから「はなれ」の考え方を聞いた。その時、矢守さんは、自分がおぼろげに感じてきた生き方が実践できるのではないかと思ったそうだ。2年半前のことだった。