羅紗と蕎麦の町、神田が基点
職人のその粋に触れる

 菊谷さんは28歳までゼネコンでサラリーマンをしていた。食べること、食べてもらうことが好きで、特に蕎麦が好きだった。蕎麦といえば、立ち食いも町蕎麦も手打ちも委細かまわずのほうで、そのうちに蕎麦屋になりたいと考えるようになる。蕎麦職人になると決めて、会社に辞表を出したその年に結婚したばかりだったから、周囲には乱暴な話だったろう。

 サラリーマン時代、オフィス近くにあった神田・小川町「酒庫・神田和泉屋」に調味料を買出しに行き、こちらと縁を深める。菊谷さんの原点は、どうやらこの神田がすべての基点になっていた。

巣鴨「菊谷」――“利き蕎麦”でちょんと摘む肴、蕎麦屋の本懐ここにあり厨房の亭主、菊谷修さん。営業は11時30分から21時00分まで、中休み無しだ。

 彼から遡ること5代前にテーラーを始めたのがその神田である。蕎麦と羅紗のこの町は“神田っ子”と自分らを呼ぶくらい、江戸の粋を象徴してきた。後に「テーラー菊谷」は神田から、日暮里、巣鴨に移って行くが、神田っ子の粋が彼の中に息づいているのだろう。

 神田和泉屋のつながりで秩父の蕎麦農家に行くようになり、当時から名店といわれた「こいけ」の店主を紹介され、そこで修行することになる。これが今の「菊谷」の土台を創った。

「こいけ」は弟子を取らない。しかし、菊谷さんは和泉屋や蕎麦農家の人脈をしっかり培ってから、店主を口説いた。その情熱に店主も負けたのだろうが、なかなかの戦術家かもしれない。「こいけ」に入ることが決まってから、反対しそうな両親を説得したのだから、これも作戦勝ちだった。

 当時の住まいがあった石神井公園を毎朝5時過ぎに出て、秩父の「こいけ」に片道2時間半、往復で約5時間かけて通った。まるで会社勤めのようなこの修業は、菊谷さんが勤め人だったからできたのかもしれない。

「こいけ」でしばらく修業した後、菊谷さんはすぐに開業準備に取りかかる。

 当初、菊谷さんは蕎麦屋開店の場所を「神田」にこだわっていた。「テーラー菊谷」発祥の地で蕎麦屋人生を賭けたかったのだ。彼と親交の厚い「眠庵」もこの頃、神田須田町で旗をあげ、あっという間に人気店になっていたことも大きかった。