しかし、適当な物件もなく、住まいと隣接した場所がよいとの周囲の勧めもあり、菊谷さんは石神井公園で開店することを決める。

 開店後1月もしないうちに「菊谷」の名は売れ、菊谷さんは「こいけ」で修業できたことに感謝した。その名前が大きかったと述懐する。以来、石神井公園で6年間、そして7年後の今、実家の巣鴨に帰ってきた。こうして巣鴨に人気の手打ち蕎麦屋が突然現れたのだ。

水切れ、食感、喉ごし…
利き蕎麦の妙を味わう愉悦の時

 日本人の感性は言葉にも特別なものを生んできた。奈良時代に茶道や華道とともに隆盛した香道がそうである。香りを「嗅ぐ」とは言わず、「聞く」という。同じくこの時代に「利き」酒という言葉が生まれている。後に出雲を中心として[きき酒師]の会が生まれてくる。

巣鴨「菊谷」――“利き蕎麦”でちょんと摘む肴、蕎麦屋の本懐ここにあり同じ銘柄で仕込み違いを味わうもよし。5酌(半合)売りからあるので、2銘柄一緒にとって利き酒と洒落込むのがいい。

 日本酒の「利き」は色・香り・味の三点だが、蕎麦は酒と比べるとさらに特異なニュアンスがある。

 蕎麦の水切れ、盛りの具合、麺体の姿形、食感、歯の砕き感、喉越しなど、繊細な妙を「利く」のだが、それだけにこれは癖になるほどの愉悦があると言っていい。

 淡い消えゆくような香りと味わいしか持たない蕎麦は、たしなむ人にその儚い香りと味わいを「利き」分けて欲しいと望んでいる。

 蕎麦通と呼ばれる人たちのほとんどが、その深みに落ち、ついには、そこはかとない香りを「聞き」、喉を蕎麦が通り越して行くときのちょっとした味わいの差を「利き」分けようとするのだ。

巣鴨「菊谷」――“利き蕎麦”でちょんと摘む肴、蕎麦屋の本懐ここにあり左は北海道産で貴重品種牡丹で二八蕎麦、右は茨城水府産の常陸秋蕎麦で十割蕎麦。その香り、食感の違いを楽しむ

 菊谷さんは店で出す二種盛りを「利き蕎麦」と名付けた。2種類の蕎麦で色、香り、味を比較してほしいとの思いからだ。

 蕎麦は産地を変え、殻を剥いた丸抜き※1の緑がかったせいろと、玄蕎麦の粉をブレンドしたもの2種盛りを利きわける。

 4人ほどでテーブルを囲んで蕎麦料理を楽しみ、利き蕎麦で盛り上がるのが、ここでは最上のもてなしになる。予約時に三種の利き蕎麦をオーダーするのも楽しみが大きくなる。

※1 丸抜き:蕎麦が収穫されたときは黒殻を被っている。それを玄蕎麦といい、殻を剥いた実を丸抜きという。玄蕎麦から挽くのを挽きぐるみといい、一般的には田舎そばといわれ、まれに深山ともいう。丸抜きを挽いたものをせいろ、ざる、まれに並そばという。