残ったのは常連客の1%だけ
そこから様々な試みが始まった

「最初は自信満々でした。『竹やぶ』と同じような蕎麦で、少し安くて蕎麦の量も多い。開店したら必ず客は来るだろうと思っていました」と高橋さんは述懐する。

 だが現実は違っていた。客は来ず、店は静まりかえっていた。この時、高橋さんは初めて気づいた。江戸以来の屋号「長寿庵」で2代続けて商いをしてきて、その屋号が愛されていたのだ。手打ちの蕎麦屋の敷居の高さに、それまでの馴染み客との間に距離ができてしまった。

 残ったのは常連客の1%だけ。心が折れそうになったが、残った客たちがさらに熱心に通ってくれるようになったことが救いだった。

「それから様々なトライをしてきました。暇な時間がよい勉強になりました。」

新江古田「じゅうさん」――名店の呪縛から解かれた男が生み出す、器の中のエンターテインメント人気の田舎そば。もちもちと噛みしだくような強さ、喉越しの手ごたえ。井戸水でとるつゆは深みがありながらも蕎麦の香り、味を邪魔しない。

 蕎麦の打ち方さえも変えてみたという高橋さん。水まわし、水こね、延し※3を工夫してみた。それは、自分の心の中にある「竹やぶ」の基準を壊し、新しく組み立てる作業だった。

「おいしいさを安定させる工夫は色々ある」――。高橋さんは考え方を修正した。固定概念を捨てる時がきていた。ある意味、「竹やぶ」の呪縛から開放されたのかもしれない。

「こうでなければいけない」という思い込みを捨て、自分が本当に好きだと思うもの、自分が望むものを表現すればよいと気付いた。蕎麦を打つのが楽しくなった。少しずつ客が集まってきて、その中から新しい常連客が生まれてきた。

 開店から1年が経った頃、雑誌の取材がきて頁を飾った。「じゅうさん」の名が蕎麦好きの間に躍り出た。予約客が増え、テーブルについた客が亭主にお勧めの料理を聞いてくれるようになった。店と客とがいい関係を醸成できるようになってきた。 

※3 水まわし、水こね、延し:蕎麦を打つための一連の作業。最初の水まわしが一番重要とされ、粉の量の半分ほどの水を加え、満遍なく粉に水を含ませながら粘りを誘い、徐々に小玉にして大きなものにまとめていく。この後のこねとの作業で蕎麦の香りや味が決定されていくといわれている。