海苔、浅蜊、江戸野菜など季節の江戸食材は
すべて細かな仕事が施され、御膳に盛られる

 島田さんは千葉の漁師の子として生まれ、小さな頃から包丁を握っていた。両親が海に出て留守がちだったから、自分で食事を作らなくてはいけない。小学生の頃には鯵や鰯などを捌くのはしょっちゅうで、近くの川で獲れた鰻まで開いて晩飯にした。

 高校を出ると、寿司屋になりたいと思っていたが、蕎麦好きの父親の勧めで、池袋の町蕎麦に勤めた。ある日、市川の駅に降りると「一茶庵」に経験者求むの張り紙があってすぐに入店。

 だが、町蕎麦と手打ち蕎麦屋は余りにも仕事が違っていて、先輩職人たちの彼を見る目は冷たかった。技術の拙さに、明日逃げよう、明日逃げようとして1カ月。当時、中山にあった「一茶庵」に職人の枠が空いて、そこに逃げるように入り込んだ。そして6年をそこで過ごし、そこから南浦和「一茶庵」で5年間修業し、こつこつと資金を貯めた。

 待望の店を川口に開いたのは1983年のこと。そこから越谷に移転し、この神楽坂に3店目を興した。江戸に上るときは神楽坂に決めていた。この町の色っぽい匂いが自分の生き方に似合う気がしていたからだ。

 今のお任せの蕎麦懐石は3年前から始めた。御膳に盛られた料理はすべてに細かな仕事がしてある。

神楽坂「志ま平」――江戸職人の粋が溢れる店内で楽しむ、巽蕎麦とお任せの蕎麦懐石(左):4品の付き出し。時計回りに上から無花果の胡麻和え、みそ豆煮、岩海苔、山くらげ。無花果と胡麻の風味がよく合う。(右):9品ある前菜。楽しい酒肴の数々、蕎麦屋の返しで様々な味付けと細かな仕事がある。ちょんちょんとつまみながら日本酒が進む。

 岩海苔は磯の香りが立ち、無花果の胡麻ソースは味噌が絶妙な配分。江戸のみそ豆煮※2は柔らかな旨みが舌に落ちる。食材に応じて、すべてに返しと出汁で味のグラデーションが演出してある。返しは蕎麦懐石の珠玉の調味料となっている。

「食材はみそ豆がそうだし、海苔、浅利なんかの江戸物を使いたい」と島田さん。江戸には昔からの江戸野菜※3を始めとした美味い食材があるという。亀戸大根、練馬大根、小松菜、千住葱、谷中生姜、穴子、蛤、しゃこなど、それらを季節に応じて御膳にのせる。

 次の盆には酒のあてがずらり並ぶ。稚鮎、赤こんにゃく、枝豆、いたわさ、これらをつまみながら、日本酒に舌鼓を打つ。蕎麦屋の定番のいたわさ(かまぼこ)には葉山葵の醤油漬けを挟んで、味付けをしてある。近江の赤こんにゃくはあくを取って、返しで薄味に仕上げてある。

※2 みそ豆:江戸の天秤担ぎでは、“なっとう~、みそまめ、なっとう~、みそまめ”と売り歩いていたようだ。みそ豆は大豆を煮て味噌を絡めたものだが江戸時代から昭和中期までは家庭の人気食で、朝の食卓、お父さんの晩酌のあとの湯漬けでも食べられたとある。落語では美味しいものの例えで使われる。

※3 江戸野菜:徳川が江戸に政権を開いて、人口増加に拍車がかかり、盛んに野菜を各地に振興させた。本文以外でも以下の野菜がある。金町こかぶ、しんとり菜、のらぼう、東京うど、東京長かぶ、馬込三寸人参、寺島(向島近辺)茄子、大蔵(世田谷)大根など。この数年、江戸野菜は脚光を浴びつつあり、NPOなどが中心になって江戸野菜作りをすすめている。