津波が「戦場よりひどい」なんて知らなかった
死んだ人も助かった人も、津波をなめていた

 この頃、真紀子さんたちの“最期”を見た人の証言を耳にした。芳弘君の同級生が、「家から300メートルほど離れたところで、3人が高台の方に向かって歩いていた」と話した。

(上)陸前高田市の市民体育館。室内で100人ほどの遺体が見つかった。当日、避難した数百人の半数以上はいまも行方不明。(中上)正面の入口付近。この日、お参りに来た人はいなかった。被災地のほかの地域と比べ、人の数は非常に少ない。(中下)2階から室内を見渡すと、壁が破壊されているのがわかる。当日は、天井近くまで津波が押し寄せた。撮影場所である2階の廊下の奥にある、男子トイレ付近に、人が助けを求め、殺到したという。(下)奥の壁は押し破られ、向こうの山までもが見える。

「自分が助かった直後から、3人の目撃者を必死に探した。1人しか見つからなかった……。女房たちが5分、いや、10分早く家を出ていたら、助かったかもしれない。

 陸前高田市(震災前の人口は2万4000人)では、死者・行方不明者は2000人を超える。私は「なぜ多くの人が亡くなったのか」と尋ねた。吉田さんは、「平和ボケさ……。俺も含め、みんなが津波を軽く見ていた」と淡々と答える。

「当初、防災無線は『津波の高さは3メートル』と言っていた。この警報は確かに問題なのかもしれないけど、それ以前のところに大きな原因がある。みんなが津波の怖さを知らなかった。亡くなった人も生き残った人も、津波をなめていた」

 そして少し間を置き、「それに尽きる」と2回、繰り返した。

 その例外として、市民体育館を挙げた。ここは、避難所として指定されていた。震災前、防災訓練のときは、吉田さんは消防団員として住民をこの体育館に避難させていた。

「ここには津波が来ない、と防災マップに書かれてあった。みんなはそれを信じたんだ。当日は、300人ほどが避難したと思う。そのうち、遺体として見つかったのは約100人。残りの200人は行方不明。引き波で海に運ばれたのかもしれない。助かったのは、数人……」

 震災直後、遺体の捜索のため体育館に入った。床には、遺体がいくつもあった。数人の遺体の腕と腕がからまったものや、胴体しかないものもあった。居合わせた自衛隊員らは「戦場よりもひどい」と漏らしていたという。消防団員の中にはショックを受け、その後精神科に通院する者も現れた。