父の教え、「四つの交点」をつかまえろ

 稲垣氏の実父・伊神照男氏は、具体的にどうやって「幻の羊羹」を創るのか、教えてくれなかったと言う。
ただ、こう言った。

「四つの交点をつかまえろ」

 ポクポクした芋羊羹、ネチネチの普通の羊羹、プリプリした錦玉かん、口の中でスーッと溶ける水羊羹。
 このポクポク、ネチネチ、プリプリ、スーッの四つの交点に、究極の味が存在する。

 稲垣氏は、やる遅くまで、無心になって「四つの交点」を追い求めたという。
 まるで、カメラマンのときに、暗室に籠もって写真を現像するように、まさにアーティティックな行為として、稲垣氏は究極の羊羹作りに没頭した。

 この一切の妥協を許さない姿勢こそが、究極の「コンテンツ」つまりは「商品(サービス)」を生み出す秘訣なのだろうと僕は思う。

マニュアル以上に大切なものとは?

 稲垣氏にどうしても尋ねてみたいことがあった。

「技の継承は、どうしているんですか?マニュアルがあるんですか?」

 そう聞くと、稲垣氏は実におかしそうに、けれどもやはりチャーミングに手振りを交えて笑った。「マニュアルなんて」と。

「作り方を順序立てて書いたって、その日の温度や湿度、時間帯、風やちょっとした変化でも、味が変わるんです。
 同じ分量で作ったとしても、その少しの変化で、違った味になります。信じられるのは、感覚です」
「感覚、ですか?」
「ええ」と稲垣氏は頷く。
「たとえば、砂糖を触らせて、その人がどういう表現をするのかを聞きます。ザラザラなのか、サラサラなのか、その人特有の感じ方といい方があって、こちらがザラザラだと思っていても、同じものをあちらがサラサラだと思っていれば、伝わらないんです。同じ味は生み出せない。だから、その人がどういう感じ方をするのか、感度を合わせるんです。それから、教えていきます」

 そこまでやるのか、と僕は驚愕する。

「ただ、やはり、いい感覚を持ち合わせている人と、そうではない人がいて、この人は大丈夫だと思った人に、味を伝えるんです」

 そうなのだろう。アーティティックなまでに微細な感覚を、体感として理解できる人は、そう多くはない。
 カメラのISO感度(国際標準化機構<ISO>で策定された写真フィルムの規格、あるフィルムがどの程度弱い光まで記録できるかを示す)も、高感度の機種もあれば、そうではない機種もある。
 いい感覚を持った人を選抜し、その人に、究極の味を体得させる。

 この過程があるからこそ、「幻の羊羹」は、今も昔も、1日に150本しか作ることができないのだ。
 それを求めて、朝も明けないうちから、人は行列を作る。
 それが、40年以上、途絶えることのない行列の秘密だ。

 行列の先にあるのは、覚悟なのではないかと思う。
 お客様に美味しいと思ってもらえる商品以外は絶対に作らないという、強烈なまでの覚悟が「商品開発」には必要なのだ。