もういちど特別な意味を与える装置

並木浩一

 コンプリケーションという名で呼ばれるのは、特別に複雑な機械式時計だけだ。普通の時計店にあるようなものではなく、あってもガラスケースの中にひとつだけ展示される、生粋のスター。

 最低でも車が買え、上は一軒家が買えるプライスが決して珍しくはない。存在自体が特殊な腕時計の天才モデルには、それだけの価値がある。

 コンプリケーションには類型があり、ざっくり言えば「音響系」「表示系」コンプリケーションに分けられ、これに最近話題の「トゥールビヨン」「フュゼ(フュジー)」が加わる。

 音響系の代表といえば「ミニッツ・リピーター」が代表格ということになるだろう。スライドレバーやボタンを操作すればいつでもその時の時刻を音階の異なる二つの音で伝えるコンプリケーション。

 例えば「シ」と「ソ」で時、15分、1分を打鐘するので、3時33分は「ソソソ、シソシソ、シシシ」と鳴るのである。2つの小さなハンマーで小さなゴングを叩くパフォーマンスも、ガラス越しに見られる。

 その不思議さと可憐な音は、18世紀の懐中時計の時代から、上流人士たちを魅了してきた。音響系にはさらに毎正時や15分ごとに自動的に音を鳴らす“ソヌリ機構”や、ウエストミンスター・チャイムのような複雑な音色を奏でるものもある。

 暗闇の中でも時刻を知ることができるという「ランプの時代の実用性」は、その風雅を楽しむものに昇華し、現代に至っても滅びることなく愛でられているのである。

 いっぽう「表示系」コンプリケーションの代表といえば永久カレンダー(パーペチュアル・カレンダー)・ウォッチ。4年に一度の閏年までを自動的に補正する機構を備えたコンプリケーションだ。

 つまりは4年に一度だけ2月29日を表示し、平年は28日から3月1日へ日付を送る歯車機構が備わっている。それ以外の大・小の月を機械的に完全に把握している。

 さらには西暦年を表示する永久カレンダーも珍しくない。現在使われている西暦=グレゴリウスの特別なルールでは、本当であれば閏年の2100年は例外として除かれる。

 だからこの時は時計店やブランドで調整が必要になるのだが、それは間違いなく次世代の役目となるだろう。21世紀末のメンテナンスをすでに織り込んだコンプリケーションは、「いい時計は子や孫に引き継ぐもの」であることを地でいく腕時計なのである。

 表示系にも音響系にも属さない“第3のコンプリケーション”とでもいうべき存在の筆頭が「トゥールビヨン」である。重力の影響を受ける時計の心臓部分=テンプ(バランス)そのものを回転させるメカニズムである。

 また、「フュゼ」は、ゼンマイの巻き終わりにトルクが落ちるのを防ぐために、極細のチェーンと円錐形の歯車で力をやり取りして平準化させる“鎖引き機構”である。

 トゥールビヨンフュゼも、間違いなく複雑ではあるが特別な機能を持たないため、昔からの定義ではコンプリケーションとは呼べなかったものだ。

 しかし今日ではその「正確のための複雑」は、機能以上の存在意義をもってコンプリケーションと認められている。少なくともこうした時計を創り得る人や工房は、生半可な才能を超える“ギフト”を与えられた者だけである。

 例えば厳密に時刻を知りたいのであればスマートフォンを見ればいい時代にあって、腕時計の価値を揺るがず伝える、象徴的な存在。コンプリケーションは、ただ時刻を伝える退屈を逃れてはるかな高みに昇り、時間への隷属をやめてしまった。

 それは誰にでも同じように与えられる時間に、もういちど特別な意味を与える装置といってもいいだろう。こんにち、コンプリケーションを持つ者は言うまでもなく特別な人間とみられる。

 だとすればコンプリケーションを持とうとする人間は、特別であることを怖れない勇気を、天から与えられた者なのである。

並木浩一 / KOICHI NAMIKI
1961年、横浜生まれ。桐蔭横浜大学教授、時計ジャーナリスト。青山学院大学仏文科卒業後、ダイヤモンド社にて編集者となる。2010年に大同大学教授、2012年に桐蔭横浜大学教授に就任。著書に『腕時計一生もの』(光文社新書)などがある。