ロマン主義の開祖と呼ばれる作家シャトーブリアンは著書『アタラ』にこう書き記している。苦しみというものは、いつまでも長続きしない。どんな苦しみでも、遅かれ早かれいずれは消えてしまう。何故なら、人の心は有限だからだと。
 
 

 その表現を初めて耳にしたとき、ひどい違和感を覚えたことを覚えている。

 心が折れる――、である。

 何じゃそりゃ、と思った。
  何やねんいったい、と思った。
  だから何なんだってば、と思った。
  わからないわ、そんなの。何なのかはっきりしてよ、と思った。
  で、何なんです、その心が折れるってのは、と思った。くどい。

 日本語としてありえないからだ。心が折れるなんていう表現は。

 が、そういった言いまわしはいつしか慣用句のごとく使われるようになり、いまでは誰もが口の端に載せるようになった。口の端に載せるったって顔芸の一種じゃありません念のため。

 心が折れるだと――? まったくもってわからん。と思っていたが、気づいたときには新聞記事までがそうした表現を用いていた。私の知るかぎり、“心が折れた”という表現を日本でいちばん早く記事中に記したのが朝日新聞だと思う。違っていたらごめんなさい。

 しかし、その記事を読んだとき、私はすでに“心が折れる”という表現に違和感を覚えていたので、天下の朝日新聞がこんな表現を採用するのか。とたいへん驚き、その記事をスクラップしたくらいだ。インターネット全盛のご時世に、いまだに新聞記事を切り抜いて資料ファイルをつくっているアナクロ人間が私です。

 その記事をちょっと引用します。ちょっとと言いながらけっこう引用してしまうのが私の悪い癖ですが、記事は平成二一年一月二十八日の総合面に掲載されました。ちょうど二年くらい前ですね。『先生 生徒指導は今』というタイトルがつけられた連載の第二回目です。