ギフトとはなにか?贈与経済について、沈黙交易について、反対給付義務と霊的な力について、才能は天からの贈り物、贈り物はいつでもミスマッチなどなど。哲学研究者にして思想家、そして倫理学者であり武道家でもある内田樹さんにおききしました。

写真=安部英知 撮影協力=合気道凱風館

すべては「贈与」から始まる

「ギフト」を定義するということで、原理的、哲学的な話をいたします。よくぞ贈与について僕のところにお訪ね下さいました。そういう抽象的な話をさせると、いくらでもしゃべりますから(笑)。

「贈与」は経済活動の一番基本にあるものです。すべては贈与から始まると言ってよい。でも、贈与という概念の定義は一筋縄ではゆきません。「これ、あげる」「ありがとう」というような単純な話ではないのです。

 経済活動は新石器時代の「沈黙交易」から始まると経済史ではいわれています。沈黙交易というのは部族のテリトリーの周縁部に「何か」が置いてあるのを見て、「あ、こんなところに『何か』がある。これは私宛の贈り物だろう」と思った人の出現によって始まります。贈り物を頂いた以上、「お返し」をしないわけにはゆかない。ということで、その場所に代わりに何か自分の持ち物を置いて立ち去る。しばらくして、その場所に行ってみると、「お返し」がなくなって、代わりにまた何かが置いてある。そこで、また「お返し」をして……というサイクルが続くプロセスのことを「沈黙交易」と言います。おそらくこれが経済活動の起源的形態であろうと言われております。

 このモデルには贈与の本質にかかわる重要な事項がすでに出揃っています。まず、それが「自分たちのテリトリーの周縁部」で行われるということです。ということは、やりとりしている相手は異族です。言葉が通じない。生活習慣が違う。価値観が違う。だから、こちらの部族とあちらの部族の間には共通する「価値の度量衡」が存在しない。現代社会では、すべての財貨サービスの価値は共通の度量衡である「貨幣」で表示されます。それが存在しない世界を想像してみてください。価値観が共有されていないもの同士での交換です。ですから、等価交換ということはありえません。「ヤシの実が1個置いてあったから、代わりにサクラガイを1個置いて、これでチャラね」ということが原理的に起こらない。「チャラ」にするためには、すべてのものの価値を一覧できる「価格表」がなければいけないわけですけれど、沈黙交易というのはそういうものがない世界での出来事だからです。等価交換がない世界では交換は原理的にはエンドレスに続くことになります。交換が終わるのは、贈与したものと「お返し」したもの(これを「反対給付」と言います)の価値が釣り合って、相殺された時だけですが、等価交換のない世界では、「価値が釣り合う」ということ自体起きないからです。

 交換が停止する場合はもう一つあります。もらったけれど、もらいっぱなしで、「お返し」をしないという場合がそれですけれど、それもやっぱり起こりません。というのは、何かを贈与された場合、それに対する反対給付義務を果たさずに「もらいっぱなし」で放置していた場合には必ず「何か悪いこと」が起きるからです。少なくとも、すべての社会集団はそう信じています。それは贈り物には霊的な力(ハウ)が内在しているからです。その霊的な力は絶えず移動することをもとめます。これを退蔵したり、独占したりすることはできません。した人はその霊的な力によって傷つけられる。

 誰だって「おはようございます」と挨拶されたら、必ず「おはようございます」と返しますね。これは「朝が早いです」という事実認知をしているわけではなく、「これから始まる一日があなたにとって良きものでありますように」という祝福の贈り物をしているわけです。贈り物ですから、お返しをしなければいけない。どれほど偉い人でも他人から祝福の挨拶を受け取ったら、同じ挨拶を返すことが義務づけられています。この義務を果たさない「無礼な人間」を見ると、私たちは「きっとこの人の身の上にはいずれ悪いことが起きるに違いない」と思うし、実際にたいていの場合、「悪いこと」が起きるものなんです。