1879年、南ドイツのウルムのユダヤ人中流家庭に生まれたアインシュタインは、チューリヒ連邦工科大学で物理学を専攻したが、講義にはほとんど出席せず、自分の興味ある分野だけ勉強したという。何とか卒業はしたものの大学には残れず、アルバイト生活を経て比較的暇なスイス特許庁に技官として就職し、自由時間に理論物理学の研究に浸った。1905年、博士論文として「分子の大きさの新たな測定法」を書き上げ、さらに「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関する論文を立て続けに発表し時代の寵児となった。チューリヒ大学の助教授、プラハ大学教授、そして母校チューリヒ連邦工科大学教授に就任し、原子力の理論的根拠となるE=mc2の方程式や空間を曲げる重力レンズ効果の提唱でドイツ物理学界の第一人者となっていた。

 北野丸は順調にインド洋を航海していたが、大物理学者は数日来悪化する腹痛と下痢・嘔吐に襲われた。この船には、欧米視察から帰る途中の九州帝国大学(現・九州大学)外科学教授・三宅速が乗り合わせていた。

 顔面蒼白で死の恐怖におののく大物理学者に三宅が下した診断は「腸カタル」であった。現代の病名を当てはめると、急性胃腸炎に相当すると思う。

 熱帯・亜熱帯における旅行者の下痢症はまれではないが、予後良好なカンピロバクターやサルモネラ、ビブリオによる腸炎と赤痢、アメーバ赤痢、毒素原性大腸菌、ランブル鞭毛虫、コレラなどとの鑑別は臨床症状だけでは難しい。ましてや当時の客船では補助診断法はなく、四診と臨床的な勘だけだったと思う。どのような薬を処方したかは興味あるところだが、残念ながら記録はない。数日で症状が軽快したアインシュタインは11月12日、香港沖でノーベル物理学賞受賞の電報を受ける。

アインシュタインと三宅のその後

 11月17日、日本に到着したアインシュタインは各地で大歓迎を受け、日本には非常に良い印象を持った。偶然主治医となった三宅とは帰国後も親密な手紙のやり取りが続いた。

 しかし、1930年代ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を奪取し、ベルリン郊外に居を構えたアインシュタインも永住を許されなかった。米国に亡命したアインシュタインはプリンストン高等研究所教授の地位を得る。一方、彼が愛した日本はナチスの同盟国となり、否応なしに戦争に巻き込まれてゆく。三宅は胆石の研究で学士院賞受賞、日本外科学会会長の重責を果たし、退任後は子息三宅博が同じく外科学教授となった岡山に隠棲するが、昭和20年米軍の空襲で死去した。

 戦後、恩人の死を知ったアインシュタインは丁重な弔文を送り、その一部は墓碑銘として三宅の郷里徳島に残る。「ここに三宅速とその妻三保が眠る。彼らは、人類の幸せのために尽くし、そして人類の過ちの犠牲として逝った」

AERA dot.より転載