なぜ「処方箋」だけが求められるようになったのか

 何か悩みを抱えた場合、その悩みを分析し、解決に導くメカニズムさえわかれば、自分で考えて対処できるはずです。

 にもかかわらず、なぜ処方箋だけが求められるようになったのでしょうか。

 技術が先か人間が先か、いつも悩むことなのですが、インターネットの普及がその原因の一つであるような気がしてなりません。

 ネットの世界では、疑問や質問に対する答えが一瞬にして出てきます。背景や理屈や経緯や歴史を考える必要はありません。

 こうした技術が進んできたから、人間が答えだけを求めるようになったのか。人間が答えだけを求めているから、それに合わせるように技術が進歩したのか。

 これについての答えは、まだ見つかっていません。

 宮崎勤事件の直後、よく使われていた言い回しに「私の内なる宮崎勤」というものがあったことをよく覚えています。宮崎勤のような異常性を持つ人はほとんどいないと思いますが、それでも当時の人は一生懸命考え、宮崎事件を理解しようとしていたように思います。

 私が神戸の大学で教えていたころ、宮崎事件から約10年後に起こった酒鬼薔薇聖斗事件について、犯人と同級生の学生に授業をする機会がありました。授業に出席していたのは、事件現場の近くに住む学生が多かったと記憶しています。

 自分と同世代の人間、ましてや近所に住む人間がショッキングな罪を犯したとき、人はそのことについて考えるものだと私は思っていました。

 しかし、授業で出て来た反応は「恐ろしい」「考えられない」「もう出所して来ないでほしい」などといった、犯人を厳しく断罪する意見が圧倒的でした。

 もちろん、授業の一環として聞いたことなので、先生である私に犯罪者と同じことを考えていると思われたくないという心理が働いたのかもしれません。

 それにしても、自分と同じ歳で同じ地域に生まれた人間がなぜそうなってしまったのかという分析がまったく出て来なかったのが不思議でした。