“手打ちの時代”の足音に誘われた人がいました。東村山の川辺にひっそりと佇む「土家」の亭主です。農家に入り、窯を開いて、千客を迎える蕎麦懐石を準備しました。

 土の豊かさが香るオーラが立っていました。

(1)店のオーラ
“蕎麦聖”から受けた薫陶

 “何故、そんな回り道をしたのだろうか”

 僕は「土家」の最初の訪問で、その事を聞いて興味を魅かれました。

 「土家」の亭主の土屋昭一さんは、蕎麦懐石で名が高い立川「無庵」で5年の修業を終えました。その後五日市に自分の窯を開き、しかも農業に従事したといいます。それは2年余にも及んだといいますが、その行程に何故?と思ったのです。

 この日の取材はまずそれを聞いてみました。

 「その間は、全く蕎麦も料理も忘れていました」こともなげに土家さんがいいます。

蕎麦前を誘う前菜、前列から鮎、さつまいも茶巾、中央は玉子焼き、金時人参、かぼちゃ。後ろがくわいのチップとわかさぎ、土屋さんらしい作品。右写真はさつまいも茶巾・3670円コース。

 土屋さんは料理人を目指して、19歳のとき料亭の名門「藍亭(らんてい)」に見習いに入りました。

 職人修業は一般的には辛いものですが、人柄もあるのでしょうか、よい環境に恵まれたようです。この時の職人たちとの出会いが、後々、今に至るまでの交流を持つことになりました。

 「店は一茶庵とつながりがあって、蕎麦を出していました」

 土屋さんはこの時に手打ち蕎麦を知りました。当時、「一茶庵」は手打ち蕎麦屋として全盛を迎えていた頃でした。せいろ、田舎蕎麦、変わり蕎麦を同列に盛る美しい三色蕎麦は、芸術的とさえいわれたものでした。

 蕎麦文化の時代的なリーダー役は、「一茶庵」を創設した故片倉康雄氏、「翁達磨」の高橋邦弘氏、「竹やぶ」の阿部孝雄氏の3人だといわれています。

 時に片倉氏は“蕎麦聖”ともいわれ、昭和47年に「日本そば大学」を開設し、今の手打ち蕎麦屋隆盛の基礎を築いた人です。高橋氏はその片倉氏に教えを受け、蕎麦打ちを簡明化し、蕎麦普及の伝道師としての役割を果たしてきました。阿部氏は老舗蕎麦屋を出て、蕎麦屋を空間芸術化し、プレゼンテーション的な蕎麦料理を確立しました。

 土屋さんは一茶庵から蕎麦を運んでくる店長と、気軽に会話を交わすようになっていました。その中で蕎麦にも興味をもちだしていました。