かけがえのない存在になることは
美学ではない

 かつては、かけがえのない存在になることが美学になっていた時期があります。

 最近になって、雑誌アエラでもそれに関する特集が掲載されました。テーマは「親の死に目と仕事」です。

 企画の発端は、フィギュアスケートの浅田真央さんのことだったようです。お母さまが危篤状態になったという連絡を受けた真央さんは、国際大会を棄権してお母さまのもとへ急いで駆けつけました。その行動に対して、賛否両論が湧き上がったのです。

「ほかに出たくても出られない人がいるなかで選ばれて参加したのだから、最後まで大会にとどまるべきだった」
「国を代表して派遣された選手なのだから、日本代表としての責任を全うすべきだった」
「いや、世界に2人といない大切な母親が危篤なのだから、ひとりの人間として日本に帰ったのは支持したい」

 私の知り合いにこの話しをしたら「親の死に目に会えなくても仕事を続けるべきだ」という考えの人がいます。しかし、その一方では「親の死に目に会えなくても続けなければならないような仕事が果たしてあるのだろうか」という意見もありました。

 結局、「本人の自己満足なのではないか」という意見が大勢を占めることになりました。よく考えれば、その人が1日や2日休んだからといって、それで破滅的な事態に陥る仕事などそれほどないのではないでしょうか。