武蔵は、「こうした心の状態を実戦の場でもきちんと保てるのか?」そして、「その状態を保つにはどうすれば良いのか?」、それを身をもって検証してきたのです。

 徹底的に敵と向かい合った壮年期以降、武蔵は晩年を肥後熊本の細川藩の客分として過ごし、座禅を組み、諸芸を嗜むようになり、今度は一転して自己と向き合うようになりました。

 『五輪書』を含め、国の重要文化財に指定される武蔵の書画は、ほとんどがこの頃の作品です。これは衣食住の心配がなくなり、現実的な生死の狭間や思考の世界から解放され、感覚やイメージの世界に至れたからこそなせた業だといえます。

 過去の偉大な芸術家の言葉からも、芸術活動には変性意識状態は欠かせません。

 この変性意識状態をつくり出すべく、晩年は熊本の霊巌洞で禅に励み、アルファ/シータ状態で『五輪書』を完成させたのだと思います。

 書き上げたのが、亡くなる1週間前だったと伝えられていますから、すべてのエネルギー、ヨガ的にはクンダリーニエネルギーを使い果たしたのだと思われます。

 「『五輪書』を書いていなかったら、もう少し長生きをしていたのでは?」ということを考えずにはいられません。武蔵の生涯を振り返ってみますと、実に心身のコントロールに長けていた人物だということが垣間見えます。

 日常モード、戦闘モード、創作モード、これらの場面場面において、その時に最適な覚醒レベル、脳波状態にコントロールできる能力が際だって高かったように思います。

 また、その能力も、かなり後天的につくられたものではないでしょうか?

 日々の基本の自主トレから始まり、様々な相手との実戦を通じて、徐々にこうした能力が形成されていったのだと思われます。

 本人もなにかを極めるには「朝鍛夕練」、つまり、朝から夕まで稽古してはじめて本当の力が身につくのだと記しています。武蔵は13歳から29歳までの間に60余度の決闘を行い、一度も負けることはありませんでした。

 しかし、それでもなお、本人は自分のレベルに満足できず、その後も厳しい稽古に励み、50歳にしてようやく満足のいくレベルに達したと書いています。残された肖像画により、はじめから強いイメージのある武蔵ですが、いかに努力の人間だったかということがわかります。

 先天的要素はもちろんあります。しかし、後天的につくられる力は無限大であるということを、武蔵本人が身をもって証明してくれているのではないでしょうか?

 はじめから強い者はおらず、様々な困難と向かい合い、試練を1つずつ乗り越えた先に理想とする自分が存在するのだと思います。