「仕事相手が全員年下」「自己模倣のマンネリ地獄」「フリーの結婚&子育て問題」……Twitterで話題を呼んだ〈フリーランス、40歳の壁〉。本物しか生き残れない「40歳の壁」とは何か、フリーとして生き抜いてきた竹熊健太郎氏がその正体に迫ります。著書『フリーランス、40歳の壁』では自身の経験のみならず、田中圭一さん(『うつヌケ』)、都築響一さん、FROGMANさん(『秘密結社 鷹の爪』)ほか、壁を乗り越えたフリーの話から「壁」の乗り越え方を探っています。本連載では一生フリーを続けるためのサバイバル術、そのエッセンスを紹介していきます。
 連載第5弾は、FROGMAN×竹熊健太郎対談! 『菅井君と家族石』が大きな話題を呼び、一躍FLASHアニメの寵児となったFROGMANさん。その後も代表作『秘密結社 鷹の爪』が大ヒット、東証一部上場のDLEでクリエイティブ部門のトップを務めています。実写映画業界から働き始めたFROGMANさんは、選択する余地もなくフリーとなり、「30歳の壁」に直面したと言います。年収60万円の時代から、いかにビジネスモデルを構築し現在にいたったか、その秘密に迫ります。一生、フリーを続けるためのサバイバル術がここに!

「フリーランスとは何か」を知る前に
最初からフリーだった。

FROGMAN 僕は今、44歳です(※2015年5月時点)。竹熊さんは「40歳の壁」というけれど、僕のいる映像業界だとまず「30歳の壁」というのがあるんです。30歳を越えて業界に残ることはなかなか難しい。

竹熊健太郎(以下、竹熊) それはアニメーション業界?

FROGMAN(フロッグマン)
CGクリエイター、声優、監督 / 株式会社ディー・エル・イー取締役
2006年に「秘密結社 鷹の爪」を地上波で発表した後、2007年には劇場公開。その後、テレビ・映画シリーズを次々と公開。独自の世界観とプロデュース手法が人気を呼び、有名原作のパロディ化によるリプロデュースにも従事。2017年秋、ハリウッド屈指のDCスーパーヒーローたちと鷹の爪団のコラボレーション映画「DCスーパーヒーローズvs鷹の爪団」を公開。その他、2018年4月からTBSラジオ「AI時代のラジオ 好奇心プラス」のMCを務めている。

FROGMAN いや、実写の世界ですね。そして、この業界にいる人ってみんな望んでフリーになっているわけではないんですよ。スタジオ・システムは1960年代くらいから崩壊が始まっていて、僕が入る頃にはフリーで下積みをする以外には選択肢のない時代でした。制作会社が業務委託という形で、フリーに制作を依頼するという仕組みですね。
 録音技師とか照明さんといった現場の人を雇用する余裕が業界にはもうなかったんです。監督を親方として、徒弟制度のように修行を積むというもので、そこに雇用契約はありません。僕は社会人になった頃は一応会社勤めだったんですが、一年くらい経つとフリーランスになっていた。ならざるを得なかったんです。
 だからフリーランスというものが何なのか、理解する前に「フリーランスだった」んですよ(笑)。

竹熊 僕と一緒だ(笑)。

FROGMAN 今から考えると、確定申告とか、保険とは何かとかを分からないままフリーランスになったというありさまです。そのリスクはなった後に気付きましたね。
 僕がまずやっていたのは制作部の仕事でした。監督が映画を撮るってなったときに、その監督と仲が良い制作部の主任(〇〇組、という映画ならではの呼称が有名)に話がきて、仕事になるという仕組みです。
 で、制作部が何をするかというと弁当、車両の手配、ロケ探し、トイレの確保とか画に映らない部分の段取りをするんです。画に映る部分の段取りは別に演出部というところがやるんですね。僕は監督になりたかったから演出部に行くべきだったんですが、最初に騙されて制作部に入ったんです(笑)。
日を重ねていくにつれてもう仕事が増えて増えて、演出部に行きたいという気持ちもどこかにいってしまった。映画だけじゃなく、とにかくTVの仕事が多かったですね。CM、Vシネとかも色々やっていました。最後の方は助監督も少しかじっていました。

竹熊 なるほど。

FROGMANが直面した「30歳の壁」。

FROGMAN そうこうしている内に30歳の頃、これも仕事で島根に行くことになったんです。そしたら島根で後に妻となる人との出会いもあり、非常に気に入って住むことになったんです。その頃はまさに「30歳の壁」で、仕事はいっぱいあったんですがこれから先もこの仕事を続けていくかをとても悩んでいました。
 フリーランスとしても30代から40代前半って一番脂がのっている時期で、出来る仕事も増えてくるし、フットワークも軽くなる。ただ制作部の50代、60代の先輩をみていると年に一つか二つくらいしか仕事がなく、アルバイトしていたりする人も多かったんです。竹熊さんも書かれていましたが、だんだん監督の方が年下になってくるようになると、仕事も振られにくくなるんですよね。
 それで悩んでるうちに、時代が変わってインターネットがかなり普及してきたんです。

竹熊 それは2000年前後くらい?

FROGMAN そうです。ネットを使った動画配信のサービスが少しずつ出始めてきた頃ですね。ただ、そのための動画を作る仕事は単価が低すぎて、既存の制作会社じゃ規模が合わないのではないかと思っていました。だから、その仕事を請け負うのは非常に小さい会社か、地方の会社になるだろうと予想したんですね。
 そこで僕は「マイクロ・プロダクション」ということを言って、島根に制作会社を立ち上げたんです。それで島根のテレビ局とかにも営業をかけたりしたんですが、全く話にならなかった。
 今振り返ればそれは当然で、当時はインターネットが普及し始めたといっても配信ビジネスもなければアフィリエイトも未整備でした。

竹熊 その段階で「これからはネットだ!」と確信されていたのですか。

FROGMAN ええ。実はピーター・バラカンさんの「CBSドキュメント」をみていたら、アメリカで既にアリゾナの荒野かなにかにスタジオを作って番組を制作し、配信しているITベンチャーが紹介されていたんです。それをみて地方のようなランニング・コストの安い場所でネットを使って世界中に配信する、というビジネスモデルが成り立つんじゃないかと思ったんですよ。

竹熊 なるほど。でもその頃はまだYouTubeもニコニコ動画もないでしょう?

FROGMAN ありませんでした。ちょっと早すぎましたかね(笑)
 それで、仕事を一人で完結できるようにすればもっとコストが下げられるんじゃないかと思うようになったんです。そこでアニメをやろうと決めました。

竹熊 実写だと最低でも数人は必要ですが、アニメなら一人で出来なくもないと。最初からコストの感覚があったんですね。しかし、FROGMANさんは実写畑出身なのに、なぜいきなりアニメをやろうと思ったんですか。

FROGMAN 当時、既にFLASHアニメが「2ch」をはじめとして盛り上がっていたんです。1990年代末期頃から流行っていたから2002年頃にFLASHをやり始めた僕は後発組だと思いますよ。ラレコとか僕は流行から遅れて世に出ましたね。

竹熊 なるほど。それで『菅井君と家族石』を作るわけですね。

FROGMAN そうです。『菅井君と家族石』は2004年ですね。当時は映画の仕事を辞めて年収が激減していました。家賃3万円の家を借りていたんですが、半年くらい滞納していましたね(笑)。
 そこで子どもが生まれることになって現金50万円が必要になり、一念発起して『菅井君と家族石』を作ったんです。