5歳10ヵ月の幼稚園児でありながら、年上の小学生たちをなぎ倒して「バンビの部」で最年少優勝。一躍、天才卓球少女として全国から注目を集めました。

 残念ながら、荻村さんは1994年に亡くなり、「泣き虫愛ちゃん」がオリンピックのメダリストに成長する姿を見届けることはできませんでしたが、その遺志は、のちに日本卓球代表監督を務める宮﨑義仁さんや村上恭和さんたちに引き継がれました。彼らは小学生を集めたホープス合宿を定期的に開き、学校単位ではなく、日本卓球協会という大きな受け皿のもとで若い芽を伸ばす強化システムを構築していったのです。

 現在の卓球界を見てみると、どうでしょう。
 福原選手に続き、石川佳純選手や平野美宇選手、伊藤美誠選手たちが日本の女子卓球を世界のトップレベルに引き上げたのも、こうした強化システムが背景にあったからです。

 男子卓球界も、強化システムが構築される前に、個人の才能と努力で五輪メダリストにのぼりつめた水谷選手が孤軍奮闘する時代が続きましたが、張本智和という14歳のスターが登場しました。JOCエリートアカデミーに所属する張本選手は、まさに日本卓球界が長い歳月をかけて作り上げた強化システムのなかで順調に育ちつつある才能といえるでしょう。それは同時に『卓球ニッポン復活』を目指した荻村さんが、ずっと描いていた未来図でもあるのです。

「スポーツが世界を1つにする」。荻村伊智朗が抱き続けた夢

 このように、現在の日本卓球の隆盛の礎となったのが荻村さんでした。
 これだけでも非常に大きな功績ですが、荻村さんの最大の功績は、「スポーツは国境の壁も人種の壁も越える」という理想を体現したことにあります。決して「きれいごとの理想」で終わらせず、「現実」のものとして見せたのです。

 たとえば、先ほどもあげた1971年の世界選手権名古屋大会では、文化大革命の影響で長く国際社会から孤立し、世界選手権にも2大会続けて不参加だった中国に対し、大会に参加するよう水面下で働きかけました。当時の荻村さんは日本卓球協会から離れており、あくまで民間人の立場で彼らが国際復帰できるようにアプローチしたのです。

 こうした努力の結果、大会に参加した中国の荘則棟選手とアメリカ代表のグレン・コーワン選手との間に交流が生まれ、これをきっかけに歴史的なニクソン大統領の北京訪問、日中国交正常化につながっていくのです。『ピンポン外交』という言葉が生まれたのも、このときでした。