「どうせお前も、発表は中止にしようと思ってたんだろ。僕にはそう見えた。ちょうどいいじゃないか」

〈きみのこと見損なったよ。きみがキャリアとして官僚になったとき、僕は密かに期待してたんだ。官僚はマスコミで言われてるような者ばかりじゃない。きっと日本を変えてくれるって〉

 高脇は生真面目な声で言った。そして電話は切れた。

 森嶋は高脇の番号を押したが、呼び出し音が聞こえるだけで高脇が出ることはなかった。

 総理執務室にはくつろいだ空気が漂っていた。

「あの男、発表を控えますかな。一応、手は打っておきましたが。どうもあの手の男は、何を考えているか図りかねるところがあります」

 総理秘書官が言った。

「彼には気の毒だが、タイミングが悪すぎる。インターナショナル・リンクが日本と日本国債の2段階の格下げを決定したと情報が入ったばかりだ。こんなときにバカげた発表をされると、日本経済にどんな影響が出るか分かったもんじゃない」

「これで経済界に貸しが出来るというものです。今夜、主だった者たちを集めています」

「しかしあの男、話に乗ってくるでしょうか。相当な変わり者と見えましたが」

 財務大臣が疑惑を含んだ口調で言った。

「学者なんてあんなものだ。狭い世界に閉じこもって、ゴソゴソやってるだけだ。かと言って、教授の椅子を袖にするような者はいないだろう」

「いや分かりませんぞ。私の親戚にも学者がいるが、相当な偏屈だ。人の言葉など聞く耳持たないという態度です。もしものことを考えて、なんとか強制的に発表を中止できる方法はないでしょうか」

「法的にはムリでしょう。日本は法治国家ですから」

「発表されれば何かが起こる気がする」

 総理は誰にともなく言った。

「数年前、東日本大震災を引き起こした東北沖地震の影響を受けて、日本の太平洋側のプレートには、いくつもの大きな歪が生まれたという説もあるそうです。あながち、荒唐無稽の研究とは言えませんな」

「現在、政府の中央防災会議の専門家たちが論文の検証を行っています」

「結果はいつ出る」

「明日中には。しかし論文が正しいと言っても、直ちに地震発生につながるとは言えません。確率が高くなったというだけです」

「東日本大震災の後、その手の話は何件かあっただろう。東大の教授が言った、4年以内の発生確率が70パーセントというのも、しばらく週刊誌、テレビ、新聞を驚くほど賑わせた。しかしその後、撤回している。それ以後も地震は続いている。しかも、頻度も大きさも増しているように感じるが、あなた方はいかがお思いかな」

「確かにあの頃は異常な騒ぎでした。それが時間と共に忘れられていく。大騒ぎして急に覚めていく。大山鳴動して鼠一匹。日本人の欠点ですな」

「首都移転の件については、アメリカ政府に連絡しますか。それとも、組織が本格的に動き出してからにしますか」

「しかし、あの男の論文が正しければ――」

 総理は考え込んでいる。ふっと東日本大震災の映像が脳裏に浮かんだのだ。白波を立てて押し寄せる津波は、沿岸のすべての人の営みをさらっていった。そして、原子力事故が起こった。官邸では初め情報不足に激怒し、すぐに錯綜する情報の洪水に混乱し、ただ右往左往するだけだった。どれが真実かすら分からない。そして、いまどれだけ進歩したと言うのだ。

 もし東京が被災地となったら――。総理は慌ててその考えを振り払った。自分の政権中には断じて起こらないことを祈るだけだ。史上最悪の総理というレッテルだけは貼られたくない。

 数分前とは違った、重苦しい沈黙が執務室に広がっていった。

(つづく)

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