1000年経っても変わらない人の本質

『源氏物語』全54帖のうち、第45帖の「椿姫」から第54帖の「夢浮橋」までの10帖は「宇治十帖」と呼ばれています。

 この「宇治十帖」は、主人公である光源氏が亡くなったあとの子や孫の代の話で、何人かの男女が登場して、くっついたり離れたりを繰り返す物語です。主として薫中将と匂宮が女性を奪い合うといった話ですが、光源氏という強烈なキャラクターが不在のため、今ひとつメリハリのない話だと理解していました。

 ある大学の先生に言われてハッとしました。「宇治十帖」は、現代人に通ずるものがあるというのです。

 薫中将や匂宮は、育ちの良い二世、三世のボンボン。女好きだけれども何らかの障害が立ちはだかるとすぐに諦めてしまうという、ガツガツしていない草食系男子。物語には母親の言いなりになるマザコンという存在も登場します。

 反対に、女性たちのほうは積極的です。

 その象徴は「思う」という言葉が出てくることです。当時の女性は、自分の考えを堂々と表明することはほとんどなく、男性の意のままに動くというのが一般的でした。先生が言うには「思う」という言葉を使って自分の意思を表明するのは、非常に珍しいことだそうです。

 本当はAという男性が好きなのに、Bという男性のほうが立場的に安定していると値踏みしたり、好きな相手の気を惹こうとして、好きでもない男性と付き合う女性などは、現代の若い女性とまったく同じ気質です。

 人間は、親子や兄弟や男女の間で今と同じようなことで悩み苦しみ、そのことで死ぬだの生きるだのと言い続けてきました。それは1000年経った今でも変わっていないことを思い知らされて、愕然としました。

 1000年経っても、人間の本質は変わりません。

 それなのに、現代になったからといって人が一瞬で変わるとは思えません。にもかかわらず、現代人は短時間に変わりたがり、それができると錯覚しているのです。