私は自由人です。凡人ちゃいます

 日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうだから。それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。

 集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いた時に、日本人は解放感と達成感を覚えます。

 理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して……というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に、日本人はなぜか深い満足感を感じる。これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。

 ヨーロッパの街でびっくりさせられるのは夏の終りの少し肌寒い日に「もう」毛皮のコートを着ている人と、「まだ」半袖半ズボンの人が並んで歩いている風景を見ることです。彼らは自分の身体感覚に従って何を着るか決めている。他人が何を着ようと気にしない。その「周りを気にしない」様子を見ると、「ああ、これが自由というものなんだな。日本人にはないなあ」と思います。

 もちろん、日本にも「周りを気にしない様子」をする人はいますけれど、そういう人は「周りを気にしないオレってすごい」「オレは凡人じゃないんだぜ」ということをうるさくアピールしてくる。自由であるべき時にすでに肩肘張っている。それは周りが半袖でも、「オレは寒いから」と毛皮を着ている人の「自由」とは質が違います。

 だから、日本人はヨーロッパ的な意味での「自由」を求めていないんじゃないかと思います。だって、日本社会で「私は自由に生きています」とアピールする人は総じて緊張しているから。でも、おでこに「私は自由人です。凡人ちゃいます」というシールを貼って、こまめに周りの承認を求めようとするなんて、野暮ですよ。

 ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカとって……」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したマナーでした。

 それは正解を得るための方法ではないのです。いざこざを避けるための作法です。原理を貫徹する、信教や思想に殉じるということを日本人はあまり好まない。それよりは非妥協的な対立を折り合わせる調整能力が尊ばれる。