橘玲の世界投資見聞録 2018年10月25日

黒海周辺を舞台にした
古代ギリシアからビザンツ帝国にいたる興亡の歴史
[橘玲の世界投資見聞録]

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 ロシア・ワールドカップで発行されたFAN IDを利用して、ロシアが実効支配するウクライナ領のクリミア半島セバストポリを訪れた話は以前書いた。

[参考記事]
●ロシアへの併合で活気づく「係争地」クリミアはクレジットカードもATMも使えなかった

 セバストポリ近郊には、古代ギリシアにまで遡るケルソネソスの遺跡があり、ローマ時代の劇場や温泉の跡などが保存されている。古代ギリシアがエーゲ海を拠点に南イタリアやシチリアにまで植民都市を築いたことは歴史の授業で習ったが、黒海のこんなところにまで進出していたとは知らなかった。そこでクリミアを中心に、古代から中世に至る黒海の歴史をざっと紹介してみよう。

クリミア半島ケルソネソス遺跡のローマ劇場 (Photo:ⒸAlt Invest Com)

 

プラトン時代のギリシア人にとって黒海は「人知のかなたの世界」

 古代の世界観においては、地球は平面で、大河の水源である巨大な水域(オーケアノス)によって囲まれているとされた。

 ギリシア人が「世界の果て」を目指して黒海での活動を始めたのは紀元前1000年紀の前半、あるいはさらに早い時期にまで遡るとされる。当初は南岸で鉱物資源などを探索していたが、やがて北岸のドニエプル川などを上ってユーラシア草原地帯にまで到達した。ドナウ川やドン川も同じだが、大河が流れ込み航行が容易で、魚類や造船用木材が豊富な黒海沿岸はたちまちギリシア人を魅了し、冒険心を掻き立てた。当時、エーゲ海沿岸の都市国家は人口が急増しており、それにともなう食糧危機も移住の要因だったようだ。

 プラトンの時代のギリシア人にとっては、世界とは「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)からファシス(リオニ)川まで広がるもの」(『パイドン』)だった。リオニ川は南コーカサスのジョージア(グルジア)を流れて黒海東岸に注ぎ、河口にはファシスの街があった。紀元前400年頃には、ギリシア人はすでに地中海の西端から黒海の東端まで航海していたのだ。

 だがそれでも、勝手知ったるエーゲ海とは異なり、ギリシア人にとって黒海は「人知のかなたの世界」への旅だった。

 ドナウ川河口(あるいはドニエプル川河口)の岩がちな島にはアキレウスの墓があり、ヘラクレスが番犬ケルベロスを捕まえるために冥府に下った場所は黒海南岸だった。アマゾネスは同じ黒海南岸のテルモドン(テルメ)河口付近(現在のトルコ北部)ないしタナイス(ドン)川流域(ロシア南部)に住んでいた。クリミア半島にはタウロイ人が住み、その残虐な女祭司イフィゲネイアは厄介な旅人をアルテミスへの犠牲にしたという。東方のコーカサス山脈では、火を盗んだプロメテウスが岩に鎖で縛りつけられ、鷲に内臓をついばまれていた。

 ヘラクレスなどの英雄たちがアルゴー号に乗り込んだのは、黄金の羊の毛皮(金羊毛)を手に入れるためだった。この秘宝はコルキスの王が所有し、眠らないドラゴンによって守られているとされた。コルキスはコーカサス(カフカス)のことで、現在のジョージア(グルジア)にあたる。この名高い冒険の舞台は黒海で、物語の原型はホメロスやヘシオドスの時代から知られていたが、紀元前4世紀末のヘレニズム期に完成した。

 この頃、黒海北方には「キンメリア」と呼ばれる遊牧民族がいた。創世記ではノアの孫の一人ゴメルと結びつけられ、預言者エレミヤは、「北方から」現われ、弓と槍で武装して「海のように咆哮する」残虐なキンメリアの騎兵の侵攻を悲嘆した。これが事実とすると、紀元前8世紀のことと推測される。

 キンメリアはわずかな資料だけを残して間もなく歴史から姿を消したが、その名は「クリミア」として残された。さらに、この伝説は意外なところでも使われている。1930年代、アメリカのパルプ・フィクション作家ロバート・E・ハワードは、想像上の王国「キンメリア」の王子である英雄コナンを生み出した。

 古代ギリシアの黒海交易の拠点は、エーゲ海東岸のイオニア地方(現在のトルコ)にあるミトレスだった。紀元前600年代中頃、北方との交易に注力するようになったミトレスはエーゲ海から黒海への出入口であるダーダネルス海峡とボスポラス海峡を管理下に置き、前500年頃までの1世紀半にわたって、穀物・金属・保存加工された魚の交易で富をかき集めて、ギリシア世界でもっとも強力な都市のひとつとして繁栄した。

 ミトレス人は黒海南岸にシノペ、コーカサス山麓にディオスクリアス、アゾフ海の入口にパンティカパイオン、北方の草原地帯の玄関口としてヒュパニス川(現在のブーグ川)河口のオルビアなどの植民都市を次々と建設した。ケルソネソスが建設されたのは紀元前5世紀で、黒海西岸のトミス(コンスタンツァ)、オデッスス(ヴァルナ)などの主要都市とともに交易拠点として繁栄した。

 古代ギリシア人の優れた航海術なら、黒海東北部の内海であるアゾフ海からエーゲ海のロードス島まで、風向きがよければ9日間で航行することが可能だった。大河の沿岸で栽培された小麦や大麦はイオニアやギリシア本土にとって必要不可欠な食料で、スパルタとの戦争中、アテナイは黒海からの輸入穀物に依存していた。アテナイが降伏した一因は、スパルタによってダーダネルス海峡を封鎖されたことだった。

ミトレスの北にあるイオニアのエフェソス遺跡。巨大な図書館がつくられヘレニズム文化が栄えた     (Photo:ⒸAlt Invest Com) 

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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