過去の日本の戦略の「二大転換」は
米国、中国との関連性の中で起きた

 先日、在日米国海軍の将校たちに講演する機会があった。その中で、私は遠くない将来、日本は中国の台頭を踏まえて包括的な戦略を考えざるをえないと思う、と述べた。

 日本の地政学的な要因によるものなのか、実は過去の日本の戦略の大転換は米国、中国との関連性の中で起こってきた。

 まず、日本の鎖国を破った1853年のペリー提督に率いられた黒船襲来である。このときペリーは、周到な計画を立てて大西洋を渡り、喜望峰を経て香港経由で琉球に上陸し、小笠原を占領し浦賀に襲来しているのである。

 これは、太平洋を隔てた日本を開国させることそのものが米国の利益にかなうという判断があったことは間違いなかろうが、一方において欧州列強が中国に圧力を加え、進出していく当時の歴史的背景の中で、中国との通商関係を構築するために日本を開港し、蒸気船の補給基地として使いたいという思惑があったことも事実であろう。

 ペリー来航を機として、その後和親条約や修好通商条約が締結されていく。日本はこのペリー来航から20年も経たない1871年に、米国・欧州に岩倉具視に率いられた大使節団を送り、「富国強兵」の基本戦略を構築していく。

 2度目の大きな戦略転換は、太平洋戦争での敗戦がもたらした。そもそも日本が中国大陸への戦争拡大に進んだ結果、米国の戦争判断に繋がったのであろうし、敗戦の結果、吉田茂は「軽武装経済復興」という戦略判断を行なったのである。

 私は15年前にサンフランシスコ総領事をしていたが、総領事公邸から数分のプレシディオ旧陸軍基地を度々訪れた。吉田茂は1951年、オペラハウスでのサンフランシスコ講和条約の署名式に臨んだ後、ほぼ単身でプレシディオに乗り込み、日米安保条約(旧安保)に署名したのである。

 米国に安全保障を依存し、経済再建に全力で当たるという大戦略であった。興味深い点ではあるが、日本の最初の戦略転換は、米国の中国進出を契機とするものであり、第二の戦略転換は、日本の中国進出を契機としたものであった。