ビジネスやテクノロジーには、もっと人間的な要素が必要だという主張は、何十年も前から言われ続けている。だが筆者は、そうした主張に正面から反論する。人文科学を何らかの利益を生み出すための道具として用いる行為、それ自体が弊害である。逆説的だが、人文科学に利便性を求めないことで、いっそう有意義な存在になると筆者は言う。


 複雑な問題を、単純な物語だけで説明できそうに思えることがある。

 例を挙げよう。数年前にフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグは、スクラブルという言葉遊びのボードゲームで、友人の10代の娘さんに負けた。「2戦目を始める前にザッカーバーグは、手持ちの文字を辞書で調べる簡単なプログラムを書いた。当てはまるすべての言葉を選べるようにするためだ」と、『ザ・ニューヨーカー』誌の記者エバン・オスノスは述べている

 女の子はオスノスにこう語ったという。「私がプログラムと対戦している間、周りの人たちはどちらか一方を応援したの。“人間チーム”と“機械チーム”に分かれたのよ」

 この逸話は、あまりに面白すぎて無視できないものだった。ザッカーバーグについて我々が知っている(と思い込んでいる)すべてを表しているように見えたからだ。地頭のよさ、強烈な競争心、極端な論理性をもってテクノロジーを信じる姿勢、そして、賛否両論を呼ぶ彼の強力なソフトウエアである。このエピソードは一気に拡散した。

 この話がウケた理由は、寓話として読めるからだ。どんな問題にも技術的な解決策を見出そうと決意している、コンピュータを知り尽くした達人の物語である。そこにはスクラブルよりはるかに複雑な問題――フェイクニュースや二極化、疎外感など――も含まれる。

 世界中で公の議論に影響を及ぼせるザッカーバーグの役割について、彼と縦横に話し合ったオスノスは、こう結論づけている。「ザッカーバーグは懸命に――常に首尾一貫していたわけではないが――まったく準備のできていなかった問題を理解しようと努めていた。それは真夜中に解決できるような技術的な問題ではなく、人間の最もデリケートな側面にまつわる問題だ。たとえば、真実の意味、言論の自由の限界、暴力の源泉などである」

 このようなストーリーを、あるリーダーの性格と、それが大衆文化に与える影響を表す話として読むのは簡単だ。しかし、結局のところ、どのリーダーも、その時代の文化を反映しているのだ。テクノロジーやその他の業界にいる「準備不足のまま、頑張りすぎる人」を称える文化において、ザッカーバーグは一人の代表的な存在にすぎない。

 企業が好む不安に駆られた頑張り屋とは違い、準備不足の頑張り屋には、自分の仕事が与える影響について熟考する辛抱強さがない。前者は承認を求めて完璧であろうとするが、後者はデータを好み、さまざまなことを躊躇せずに試してみる。素早く行動して物事を打ち壊し(フェイスブックの社是)、破壊したものが実は価値あるものだったという事態になれば、謝罪して次はもっとうまくやると誓うのだ。結局、失敗とは見方を変えれば学習である、というわけだ。

 それは必ずしも正しくない。失敗が単なる怠慢や完全なる無知にすぎない場合もある。

 批評家筋が主張するように、テクノロジー業界の大物の中には、人文科学や社会科学のコースをもっと受講していたらよかったのに、と思われる人がたくさんいる。こうした一般教養の主要科目は、未来のリーダーが人間の生活と社会におけるジレンマや複雑さに取り組む準備をするためにあるのだ。

 昨今、経営やハイテク関連のカンファレンスで、「テクノロジー業界にはもっと人間主義が必要だ」という話を耳にしないことはない。我々は皆が、「人間チーム」と「機械チーム」に二分されているようだ。

 経営書の著者チャールズ・ハンディは、2017年のグローバル・ピーター・ドラッカー・フォーラムでの感動的な演説の冒頭で、こう述べた。「我々は、テクノロジーがどれほど進歩しても、それを人間性に代替することはできない。感受性、愛や美や自然への理解と感謝、愛情や同情や意義を求める心、希望や恐怖、直感、想像、論理を超えた信念などには、替えられない」

 経済学者、石油企業の経営者、経営学教授としてビジネスに関わってきた人生経験をもとに語る80代のハンディは、ひときわ印象的だった。ビジネスに人間性を求める声は目新しいものではなく、その課題がまったく解決されていないということを、彼は思い出させてくれる存在だ。

人文科学の活用

 エルトン・メイヨーは1930年代、組み立てラインの労働者に敬意と配慮をもって接すれば生産性が高まることを立証し、人間関係論の潮流を引き起こした。この潮流は、フレデリック・テイラーの科学的管理法――労働者を効率重視の産業機械に組み込まれた扱いにくい歯車へとおとしめた――に異議を唱えるものとなった。

 人間関係論の提唱者たちは、生産性の向上を目指しながら、疎外感――メイヨーが言う「自分の社会的役割および集団との一体感に、自信が持てなくなる」ことを抑制しようとした。ほどなくして、ピーター・ドラッカーが「経済人の終わり」を予言した。しかし、経済至上主義者が死ぬというその知らせは、いまだ実現していない。それから半世紀後、グローバル化時代の前夜になってもドラッカーは、経営とは科学よりも一般教養に近いと主張し続けていた。

 テクノロジーや経済の動向に不安が生じるたびに、ビジネスに人間性を求める声が表出するようだ。2008年の金融危機の後、ビジネス・スクールは倫理のコースを急いで追加した。それ以来、人間的成長と社会貢献に関するクラスは増加の一途をたどっている。人々は再び人文科学を必要としており、さもなければデジタル変革はテイラー主義と化してしまうだろう。

 文学や哲学、社会科学は、ビジネスリーダーの不備を補い、我々を救済してくれるのだろうか。私はそうは思わない。

 たしかに、意欲に満ちた大物リーダーが、ジェーン・オースティンやジョージ・オーウェル、マヤ・アンジェロウ、ミシェル・フーコーなどを読む時間を増やせば、ためになるだろう。しかし、人文科学の味を知ったところで、準備不足の頑張り屋は、人間をめぐる問題をうまく管理できるようにはならない。なぜなら、頑張り屋が準備不足に陥るのは、彼らが知らないフィクションのせいではなく、彼らが信じている物語のせいだからだ。

 それは、テクノロジーと経済の力が、進歩を否応なく牽引するという物語だ。その物語の中でも人文科学の役割はあるが、権利を伴わない。テクノロジーは仕事熱心な大黒柱で、人文科学は慎ましい家庭の主婦なのだ。

 彼女たちは「美しく」「便利」でなければならない。その責務は、ビジネスリーダーが共感力や思いやりや魅力を備え、人々に力を与え鼓舞し、影響力を持てるようにサポートすることだ。けっして疑問を抱いたり、葛藤したり、助力を惜しんだりすることはない。この都合がよい結婚は、古びたスウェットパーカーのように、サイズは合っていてもお似合いではないのだ。