小林製薬の小林一雅会長Photo by Hiroki Kondo

小林製薬といえば、ユニークな新商品を次々と生み出し、インパクトのある宣伝を行うなどマーケティングに長けた会社として知られている。今でこそ、日用品・大衆薬の有名メーカーだが、もともとは医薬品の卸売業であり、将来の生き残りを懸けてメーカーに事業転換したという経緯がある。小林一雅会長は、その「メーカー化」を軌道に乗せて、成功させた。まずは、そのきっかけについて語ってもらおう。

おやじを尊敬していたが
一度だけ衝突したことがあった

「将来は会社を頼む」――。

 おやじが生きていた頃、何度も言われた。だから私は、家業を継ぐのは当然と考え、経営者としてのおやじの後ろ姿を見ながら育った。息子の私がひいき目に見ても能力の高い人だった。唯一問題があったとしたら47歳の若さで亡くなったことだろう。胃がんで、病気が発見されたときにはもう手遅れだった。

 とにかく真面目。人一倍仕事が好きで、家でも仕事の話ばかり。そんなおやじを私はひそかに尊敬していたが、一度だけ衝突したことがあった。甲南高校の3年生のときだ。

 私は2代目社長、小林三郎の長男として兵庫県宝塚市で育った。中学3年生の頃にフィギュアスケートに出合い、高校2年生からは大阪の梅田スケートリンクまで毎週レッスンに通ってひたすら練習に打ち込んでいた。努力が実り、高校3年生の12月にはインターハイに出場、翌年1月には国体にも出て、全国7位か8位の成績を収めた。すると、スケートを教えてくれた先輩が「甲南大学のスケート部で一緒にスケートをやろう」と声をかけてくれた。

 甲南大学には受験しなくても進学できる。

 しかしおやじは大阪市立大学を出ており、「お前は国立大学を目指せ」と常々言っていたし、私自身も受験クラスで、先輩から誘われるまでは地元の神戸大学を受けるつもりでいた。だが、調べてみると、神戸大にも他の国立大学にもスケート部がない。どうしてもスケートがやりたかったので「甲南大に行く」と宣言すると大喧嘩(げんか)になった。