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森達也 リアル共同幻想論

何のために、印鑑を押すのか

森 達也 [テレビディレクター、映画監督、作家]
【第2回】 2007年11月9日
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 パスポートを紛失した。帰国した成田で入国手続きを普通に終えたのだから、そのときは確かにあった。

 成田からJRを乗り継いで帰宅して、カーゴパンツの膝のポケットに入れていたはずのパスポートがなくなっていることに気がついた。どう考えても不思議だ。弾みで中のものが落ちるようなポケットではない。どこで消えたのだろう。でも思い悩んでいる余裕はない。

 まずは警察に遺失物の届けを出して、次に旅券事務所に連絡した。なくしたパスポートの失効と新しいパスポートの申請。必要な書類はいろいろ。

 警察の紛失証明書に加え、紛失一般旅券等届出書やら縦4.5×横3.5の写真とか、住民票に戸籍抄本に運転免許証に印鑑。

 戸籍抄本に住民票。もちろんそんなもの家に常備しているはずがない。そもそもなぜ2つ必要なのだろうか。この2つの書類に免許証や印鑑が必要な理由は、本人であることを証明するということなのだろうけれど、なぜこんなに多く、手を変え品を変え必要なのだろう。

 まあ仕方がない。もしも誰かに悪用されたらもっと面倒なことになる。事態は急を要するのだ。

 僕は戸籍抄本と住民票を入手するために市役所に行く。受付で窓口を訊ねる。戸籍課と市民課。市役所には他にもいろいろな課がある。生活支援課に課税課に国民年金課。商工観光課に男女共同参画担当室に道路課に治水課。住宅課に公園緑地課に宅地課。生涯学習担当室に社会福祉教育課。……人の営みは複雑だ。早足で階段を駆け上がる。感心している場合じゃない。急がなくては。

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 「ここに印鑑を押してください」

 窓口の職員は、書類のその個所を指で示しながら言った。バッグの底を手で探りながら、僕は思わず吐息をつく。まずいなあ。確かに入れたと思ったのだけど。

 「……サインじゃダメですか」

 「ダメです」

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森 達也 [テレビディレクター、映画監督、作家]

1956年生まれ。テレビディレクター、映画監督、作家。ドキュメンタリー映画『A』『A2』で大きな評価を受ける。著書に『東京番外地』など多数。


森達也 リアル共同幻想論

テレビディレクター、映画監督、作家として活躍中の森達也氏による社会派コラム。社会問題から時事テーマまで、独自の視点で鋭く斬る!

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