USBフラッシュメモリのコンセプト開発などを手がけ、シリアル・イノベータ―の先駆けとして知られる濱口秀司さん。初の著作『SHIFT:イノベーションの作法』も好評だ。同書の元となった『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』での連載時に、読者からの問い合わせが多かったイノベーション人材の教育について、後天的にどのぐらい鍛えることができるのか、そのポイントは何か、濱口さんにあらためて聞いてみました。

――普段、商品開発から工場の生産性向上、R&D(研究開発)戦略、財務戦略などさまざまな角度のコンサルティングを手がけられる中で、特に日本企業が顧客の場合は「若手のイノベーション教育もお願いしたい」という依頼が多いそうですね。

 多いですね。教育を大事にするというのは、日本企業のよい習慣だと思いますし、できる限りお受けするようにはしています。

―――大人になってから、イノベーション発想やその実践力を鍛えるうえで何が一番大切なポイントになりますか。

濱口秀司さんに聞く「イノベーション人材の教育法」:「教える」なんておこがましい。自分を殺せる刺客を作れ【書籍オンライン編集部セレクション】濱口秀司
京都大学工学部卒業後、松下電工(現パナソニック)に入社。R&Dおよび研究企画に従事後、全社戦略投資案件の意思決定分析を担当。1993年、日本初企業内イントラネットを高須賀宣氏(サイボウズ創業者)とともに考案・構築。1998年から米国のデザイン会社、Zibaに参画。1999年、世界初のUSBフラッシュメモリのコンセプトをつくり、その後数々のイノベーションをリード。パナソニック電工米国研究所上席副社長、米国ソフトウェアベンチャーCOOを経て、2009年に戦略ディレクターとしてZibaに再び参画。現在はZibaのエグゼクティブフェローを務めながら自身の実験会社「monogoto」を立ち上げ、ビジネスデザイン分野にフォーカスした活動を行っている。B2CからB2Bの幅広い商品・サービスの企画、製品開発、R&D戦略、価格戦略を含むマーケティング、工場の生産性向上、財務面も含めた事業・経営戦略に及ぶまで包括的な事業活動のコンサルティングを手掛ける。ドイツRedDotデザイン賞審査員。米国ポートランドとロサンゼルス在住。

 誰でも後天的に鍛えることができますが、同時に、人間というのはそうそう変われないというのも事実です。だから、クリティカルな状況に追い込むことが大切だと思います。僕も、もとはダラダラした性格ですから、自分を常に危機的な状況に追い込んできました。ものすごく危機的な状況で、方法を知って、それを実践すると、鍛えられます。

 あとは、「どうすればいいのか」を自分の頭で物凄く考えますね。全体の1割ぐらいは色々な人の様子を見て「あ、ああいうやり方はあかんな」と学ぶこともありますけど、9割ぐらいは自分で考えてます。

―――方法論も含めて、自分で考える、ということですね。

 たとえば、企業で若手の教育を依頼されたときにお伝えしていることの一つに、ファシリテーションがあります。皆さんも、社内外のミーティングなどで、結構務める機会が多いのではないでしょうか。

 僕はいつも、立った状態でファシリテーションをするんです。いわば、その場を視覚的・環境的に制圧した状態です。

 社内のミーティングであれば、途中で偉い人がバーッと話し始めて、収集がつかなくなったりすることもありますよね。その瞬間、僕は座るんです。こういうときよくないのは、ワアワア喚きたてている偉い人の脇で、ファシリテーターがボーっと突っ立っている状態です。棒立ちになっていると、オーソリティがなくなりますから。

 座ると、「オーソリティを外している」サインになるので、その偉い人が勝手に話している状態なんだ、とみんなが認識します。そのうち、その偉い人も話し続けて疲れてきますから(笑)、はあはあ言い出したら、そこで、すかさず「今のは、いいディスカッションでしたね」と言ってスクッと立ち上がると、プレゼンスがこちらに戻ってきます。

―――立ったり座ったりすることで、存在感をコントロールできるんですね。

 不用意にボーっと立ってしまうことって、結構よくやってしまっていると思うんです。たとえばプレゼンターとして発表する場合に、途中で動画を流したりするじゃないですか。その横で棒立ちしている人も多い。動画が始まった時点で、観衆にとっては動画が主体になりますから、プレゼンターがその脇で棒立ちになっていると、オーソリティを失っていることが観衆に伝わってしまいます。だから、動画が始まった時点で、その場で席に着くか、あるいは観衆側に座って一緒に動画を観る。終わったら、すぐに発表場所に戻って、オーソリティを取り返す――そんな繊細なジェスチャーコントロールで、場の空気をがっちり握れるかどうかが決まります。

―――そういう場を支配するジェスチャーコントロールのプロトコルも、ご自身で考えて編み出されるんですね。

 ひとつの「型」ですよね。

 日本人のいいところのひとつは、糸井重里さんもおっしゃってるように「道を究める」ところにあると思うんですね。華道でも茶道でも、なんでも最初に「型」がある。「これやりなさい、あれやりなさい」という決まった型を究めていくうちに、だんだんもっと深いところが見えてきて、あるとき型を破ることができる。でも、型破りなことをするには、最初に型を知らないといけない。そうやって、単純なことを繰り返したり、単純なことにすごい発見をすることを諦めたら、日本人じゃない。と、僕は思っています。

――道を究めるのは、日本人のいいところであり、アイデンティティだ、と。

 たとえば、「歌舞伎」や「日本舞踊」は伝統芸能の最たるものだと思いますが、特別な技法というのは、まったく文書化されていないそうなんです。日本舞踊に非常に詳しい役者さんに聞いた話なんですけど、たとえば坊主を演じるときは「ヘソと膝の間を女にせよ」という教えがあるんだとか。たしかに、子どもの頃を思い出してみると、檀家だった寺のお坊さんというのは、なんだか女性的だったなと思って、すごく納得したんですよ。ただし、そういう演じ方をしろとはどこにも書かれていなくて、奥義として口伝で伝えられてきたそうです。

 観阿弥や世阿弥みたいに、ゼロから何かを始める創始者というのは、ほんの一握りの天才ですよね。そうじゃない限りは、まずは伝わってきた型をどんどん磨いて次のレベルにもっていく、というのが日本人の美徳ではないかと思います。それが自分の生活になり、人生になり、アイデンティティになる。そして何より、楽しいわけですよね。方法論を追求する、道を究めていく、というのは、僕は幸せなことだと思うんです。日本人に許された「幸せ」なんですよ。仮にアメリカ人にそれを言っても、あまりピンとこないはずです。

――道を究めるように仕向けることが、教育になるのでしょうか。

 教育って何だろうかと考えると、ignite=「火を付ける」ことが本質だと思うんですね。教育というのは、「何かを伝えることだ」なんて思ってはいけない。本人が「これは面白い!」「やっていいんだ!」と思うようigniteすることが、教育の本質だと思う。やる気になれば、みんな勝手に吸収しようとしますよ。

「教える」「伝える」なんて思うよりも、自分を殺せるぐらいの刺客を作ろうとすること。刺客を育てるよう自分の弱みや強みも全部さらけ出すこと。そして、その刺客に絶対に負けないようにあの手この手で頑張ること。もう一度まとめると、

[1] 魂に火を付ける。
[2] 自分の刺客を作る。刺客を育てるよう自分の弱みや強みも全部さらけ出すこと
[3] その刺客に負けない。

 教育でできることは、この3つぐらいしかないと思うんですね。つまり、実は教育というのは「自分が育つ」ことなんじゃないかと。人に教えるには、わかりやすくまとめたり、ノウハウ化しないといけませんからね。