人生が怖くなくなる瞬間

 眼科の臨床医としてのキャリアを歩みはじめる前、僕は医学部の大学院で研究に携わっていて、31歳の時には緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見したこともあった。そうした経歴からいっても、僕のなかには元々「科学者」らしい思考法が埋め込まれているのかもしれない。

 幸か不幸か、僕は自分の人生に起こるあらゆることで「実験」せずにはいられない性分らしい。どうすれば人といい関係が築けるんだろう。どうすれば体脂肪率を減らせるんだろう。どうすれば人の顔と名前を覚えられるんだろう。そんなふうに、ぜひ解決したい「問題」が見つかると、あれこれ考えて「仮説」を立ててみる。

 記憶にある限り、僕の「実験」は10代の頃から続いているようだ。たとえば、高校に入るために受験勉強をしなくてはならなかった時。今も昔も記憶力にからきし自信のない僕は、暗記中心の受験勉強が苦痛でしかたなかった。そこで「自分のやりたい勉強だけしていれば、試験に受かる」という仮説を立て、検証してみることにした。その瞬間、受験に合格するかどうかは大した問題ではなくなる。大切なのは、自分の立てた仮説が正しいかどうかで、合否は二の次になるわけだ。

 自分でとことん試してみたいと思えるような「仮説」に出会えたら、あとは先入観にとらわれることなく大胆に実験を続ける。「先入観にとらわれるな」とはよく言われることだけれども、これは相当むずかしい。10年近く前、僕が「(点眼薬ではなく)飲み薬で失明を治す」と言い出した時も、その道の専門家さえ「そんなことは無理でしょう?」と首を傾げた。でも、僕は自分の立てた仮説に自信があった。研究なら誰よりもやっているという自負と、成功すれば全世界3000万人の患者を救えるという確信が、まわりの先入観から僕をしっかりと守り、「実験」を可能にしてくれたわけだ。

 振り返ってみれば、僕の人生は終始その調子だった。医師国家試験、研究生活、就職、臨床医としての日々、そしてアメリカ・シアトルでの起業……。そうした人生のあらゆる場面で、文字通り身を賭して「実験」に没頭してきた。要するに、僕の言う「実験」とは何も研究室にこもってやる科学的なものだけを指しているのではない。社会のこと、人生のこと、会社のこと……、文字通り、自分の身のまわりで起こるすべてのことを「実験対象」にしているわけだ。

 すべては「実験」なんだと思えば、周囲で起こることが途端におもしろくなる。予想した通りに物事が進むと「仮説は正しかったんだ」とわかって嬉しくなるし、反対に予想外の結果になっても「仮説のどこが間違っていたんだろう」と、今度はその原因を突き止め、次の仮説を立てるのに夢中になる。そんなふうに毎日をすごしていれば、どう転んでも怖くない。どう転んでも、必ず新しい発見があって、自分が学習し成長できたと実感できるからだ。