人は「簿価」ではなく「時価」で評価する

 人をエンカレッジするには、その人の存在をきちんと認め、リスペクトする必要がある。

 僕は、一般的な基準から言って、自分の能力がそれほど高いと思っていない。むしろ、ちょっと低いくらいじゃないかと感じている。将来に対して「ビッグピクチャー」を描いたり、乏しい判断材料から大胆な決断を下したりするのは得意でも、実務的なことは大の苦手だ。記憶力にもからきし自信がなく、いくら毎週のように人が入れ替わるバイオテク業界とはいえ、会社のスタッフ80人を覚えるのにも苦労するありさまで、いつも全員の顔と名前を書き込んだメモを持ち歩いている。

 だからこそ、そんな僕を惜しみなくサポートしてくれるスタッフには、ぞっこん惚れ込み、また尊敬もしている。彼らの仕事ぶりを目にして「すごいなあ」「本当に優秀なんだなあ」と心底感心するのは日常茶飯事で、これは謙遜でも何でもなく、彼らのような才能が僕みたいな人間についてきてくれることを奇蹟のように感じている。

 僕は常々、人は「時価」で評価されるべきだと思っている。ある人が評価されるのは、彼または彼女が今、まさに今、すばらしい結果を生み出しているからに他ならない。結果を生み出さなくなれば、おのずと評価も下がる。それが「時価」で評価するということだ。

 とはいえ、人を「時価」ではなく「簿価」で評価しようとする世界もたくさんある。僕がかつて日本で身を置いていた医局も、そうした世界の一つだった。慶應大学の医学部を出たから。過去に病気の原因遺伝子を発見したから。僕という人間に対する評価は、過去にどれだけのものを積み上げてきたかによって定められていたわけだ。

 ところが、12年前に日本を離れた時点で、僕の「簿価」は一気にゼロに近い状態になった。アメリカでは慶應大学なんて「どこ、それ?」という感じだし、起業してからは、優秀な臨床医だったという「簿価」も何の意味も持たなくなった。

 というわけで、僕は否応なしに「時価」で評価されることになったのだが、この「時価」評価が、どうやら、自分にはとても合っていたようだ。野球選手が成績不振でたちまち戦力外通告されてしまうように、一瞬たりとも気を抜けない緊張感、常に「今」成果を見せることを求められる厳しさ。

 創業から10年が経って、曲がりなりにもトラックレコード(実績)が溜まってくると、評価を得るのは以前に比べれば格段に楽になったとは思う。それでも、本質は変わらない。僕が過去の「簿価」に寄りかかって少しでも気を緩めた途端、人は離れていってしまうに違いないのだから。

 投資家や会社のスタッフが僕を「時価」で評価し続けるように、僕もまわりの人を「時価」で評価し続けている。そこに曖昧さや馴れ合いが入り込む余地はなく、一貫してとてもシビアだ。でも、だからこそ、人の能力に対して本当に真摯な評価が生まれる。そして、その掛け値なしの評価がエンカレッジメントに繋がっていくのだ。