「絶対的な聖域」として守られる未成年少女「ミテコ」

 それでは、繁華街浄化作戦を経て彼らが学習した「問題起こさず商売する方法」とはいかなるものなのか。大きくは2つある。

 一つは「ミテコ(身分証を提示できない18歳未満の女性)」とは関わらないということだ。

「(繁華街浄化作戦の)前は、ミテコも入れてました。もちろん、未成年を水商売・風俗で働かせちゃダメなんて大昔から決まっていることだけど、別人の住民票持たせて店に入れたり、身分証の要求すらされないこともあった。スカウトしてるこっちだって、『19歳です』『20歳です』って化粧した中学生が来ても、『だいぶ小柄だな』とか『童顔だな』とは思うかもしれないですけど、それ以上追求しようないですからね」

「でも、今はもうやめたほうがいい。青少年保護の条例やらが適用されるようになって、相当厳しい話になる。この仕事でトラブった時って、ただの風俗トラブルや売買春のトラブルなら担当は刑事課だけだから、よほどでなければ警察も動かない。前はその範疇だった。でも、今は未成年が絡んでるとなると話は違う。生活安全課系の少年担当、保安担当も束になって動いてきて相当ややこしいし、挙げられ(逮捕される)た日には罰も相当重い」

 街の浄化作戦と同時に進められている規制強化。その柱となっているのが「子どもたちの健全な育成」という一般に分かりやすく、広く受け入れやすい「規範」だ。現在の繁華街では、警察をはじめとする権力の中にも、それに監視される側にもこれが「絶対的な聖域」として設定されている。

 この「絶対的な聖域」は、これまでは必ずしも「聖域」ではなかった。「健全な育成」というマジックワードが使われるところは象徴的だ。

 多くの人にとっての「健全な育成」とは、かつては、学校に通わせて、飯を食わせて、適度な運動をさせて、非行に走らないようにしつけ、相応の年齢になったら仕事に就いて結婚もし、親孝行に励むような子どもを育てることだったのかもしれない。もしそうであるとするならば、それは80年代以降の豊かな日本に必ずしも当てはまるものではない。

 90年代半ばに日本中を揺るがした援助交際騒動を改めて持ち出すまでもなく、現代における「健全な育成」とは、物質的な豊かさや安定の中に人を組み込み、成熟させることではない。一人ひとりが曖昧で不安定な価値観や倫理観を再度立て直し、枠組みそのものを再構築する作業の途上でそれを見つけなければならず、必ずしも明確ではないものなのだ。

 しかし、不明確なものであるがゆえに、権力はそれを押さえ込みにやってくる。今や「警察の中にも事件の大小があって、ミテコ使っているのを摘発したら点数高い。だから、明らかに怪しいことやってそうな店があっても、それよりもミテコのほうを探しにくる」(赤坂)状況がある。

「絶対的な聖域」を合法と違法の境界線で囲うことで、社会的な「規範」が改めて構築されている。

「子どもたちの健全な育成」という「規範」は「働き手」の問題に限られるわけではない。むしろ、その「規範」はそういった分かりやすい対象以上に、より抽象的な「街の空間やイメージ」の形成にも影響する。

「風営法に関わる店舗は、学校から、病院から、公共施設から何メートル離れてなければならない」、あるいは「繁華街に立つ怪しげな看板や人々の動きを制限しなければならない」という規範に基づいた法制度は、街からいかがわしさを排除し、「家族連れでも行ける治安のいい繁華街」を生み出す。

 しかし、それによって「市民の目」の外に配置され、街から排除された「あってはならぬもの」は、社会のどこからも消滅したのだろうか。その答えは、もう一つの「問題起こさず商売する方法」である「登録制」に見ることができる。