本当の自由は、自分で価値を決めること

打算や思惑のない言葉こそ、伝わる<br />【(『超訳ニーチェの言葉』)白取春彦×ジョン・キム】(後編)

白取 こういう話をしていると、「高みへの意志を持ち続けていると、何が待っているのか」という質問がよく飛んでくるんですね。でも、どうしてみんな、そうやって報酬なり何なり、すばらしい景色を欲しがるのか。すべての行動に見返りを求めるのか。僕には不思議なんです。それは例えば、「この仕事をすれば、なんぼ入って来るの」と言っているのと同じなんですよ。それは卑しいでしょう。

 ニーチェが言っているのは、もっときれいな世界なんですよ。透明な世界。なんでも経済的に価値化できるわけではないんです。そんなものを超越した生き方があるんです。

キム そこにあるのは、自分の可能性というものが、具現化された世界のような気がします。外に評価軸を置くのではなく、高貴な精神を目指していく中で、新しい自分に生まれ変わることができる。脱皮し続ける自分になる。そこに人生最大の目標を置いた人間は、目は外に向かずに、自分の内側に向くんだと思います。今現在の自分の未熟さについても厳しく、ちゃんと見て、省察できる精神が備わる。

 なので、その先に待っているのは、外部的な何か物質的な対価というよりは、自分の精神性が上昇するということに対する、ある意味では憧れというか、本当の意味での人間の欲求が満たされるということではないかと思います。

白取 僕なりの表現をすれば、完全なる自由、でしょうか。すべてができるという自由。そして自分がすべての価値を決めることができるという自由。善悪を決める自由。そういう完全なる自由が、その高みのところにある。

 普通の人はみんな、世間の価値評価の中に生きているんだけど、自分が価値を決める段階になったら、これこそ自由なんですよ。ニーチェの高みというのは、そこにある。ビジネスでも、倫理を決める人が一番強いでしょう。社会のルールを決める人です。

キム 共感しますね。人間は最終的に、一番精神性が高いもの、道徳や倫理に行くと思うんです。恥を感じるというのは、より倫理的になるための最初のステップを踏めたことですよね。でも、その恥は、ある意味では規範によって、作られるものだとも思うんです。

 ですから、恥を構築する作業というものが、倫理をつくる作業でもある。ビジネス問わず、政治の世界においても、そういう設定ができる人は、神が宇宙に、あるいは人類に対して、ルールや規範を決めることと等しい気がするんです。

 だから、精神性を追求することの意味があると思うんです。それは、自分の中で、正しい、正しくないという判断基準を持てるということだから。自分の判断基準に対して、自分からの絶対的な信頼ができる境地に達することができるということだから。

白取 絶対的自由の一番いい代表は、赤ちゃんですね。

キム 社会性を身につけながらも、自分の純真さを失わない。そんな人間になれる、ということですね。

白取 その境地を、我々大人は、迂回してやっと獲得するんです。